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コミュニティの心理学

2008/04/23加筆修正
2002/05/01改訂
1997/09/01初稿

異質な物に対する恐怖

※ここに書かれている話は私がこのホームページを立ち上げた初期の頃のコーナー「パーソナルスペースについて」にも重なる話です。事前に読んで参考にして下さい。

人間は異質なものに恐怖します。自分が過去に体験したことのないもの、触れた事のない人々、外見や雰囲気の異なるもの、ありとあらゆる物に恐怖し遠ざけようとします。

それは身を守るための本能にも近いものです。理屈ではないでしょう。

いわゆるガン黒とか金髪にピアスとか雰囲気の異なる人、見るからにヤクザっぽい人や目つきの悪い未成年者がコンビニや駅で地べたに座っていたり大勢がたむろしているのを見て心地よく思う人は少ないでしょう。異質な雰囲気のものが集団になれば恐怖は否応なく増します。心が反応でするんですよ。

相手についての情報が少ないことは特に致命的です。相手のことを詳しく知らない。外見が異なるだけでも怖いのに言葉が通じないとか相手が大声をあげるなどの行為をみて好感を持てというほうがおかしいのです。

以前に東京に住んでいた頃、私は(2000年前後)移動にバスを使っていました。

その移動の際に公共の施設で身体に障害を持つ方の学校、訓練施設を通ります。ですから、その施設に通う学生や障害を持つ方が時折バスには乗ってこられます。

滅多にある訳ではありませんが、突然大声で歌い始めたり、女性に触ろうとする人(悪意があってではないと思いますが)も時には見ることがありました。

彼らにすれば毎日の通学でしょうし、悪気があってやってる訳ではありません。いつも通勤で使っているバスの乗客や運転手の方も、そういった際の対応には慣れている部分があります。

よくあることなのかもしれず奇声をあげたり奇妙な動きをする彼らを適当にあしらう人もいらっしゃるようでした。

私は普通の人よりもそういった方達との繋がりがあります。たぶん、少しは慣れている側でしょう。特殊な依頼者もありましたし過去には精神的な疾患を持つ人とか、いわゆるカルト宗教に取り込まれた人を救出に行くとかもありました。

障害者の方の雇用支援問題にも兄が取り組んだり講師として指導に立ったりしていましたので、関連施設を訪れたり取材に伺ったこともあります。ですからまったく無縁という訳ではないのです。

彼らのおかれている状況や環境、身体的、肉体的、精神的反応についても多少は理解しているつもりでいます。

でも、その私にしても恐怖感は覚えるのです。必要以上に身構えてしまったり無意識に怖いと思って反応してしまうこともある。

特に雨の日、傘を持ってバスに乗り込んできた人(障害のある人)が大声で歌っていたり、傘を多少オーバーに振り回したり動かすのを見れば、おせっかいながら出ていって止めたくなってしまいます。

万が一ということもあります。そうなればバス通勤する一般人も通学に使っている障害を持つ方やご家族も大きく傷つく。それまでは普通に通学や通勤に使えていたバスが、それをきっかけに使えなくなったり、危なげに見えるからということで全て排除する方向に傾くことも十分に考えられますから。

実際には異なる 

見た目とか雰囲気で相手を怖がるのは、「自分(達)とは違う」ように感じるからですが、実際に問題を起こすのはそういった人とは限りません。

酔った勢いでとか何人か集まった際に問題を起こすのは、見た目が怖いとか異質な人ではなくむしろ、普段から自分を「普通の人だ」と思い込んでいる人、一般的な服装をしていたり真面目そうな方が圧倒的に多いんですよ。

JRが行った事件の集計結果でも、ホームで殴りかかったり暴力事件などのトラブルを起こした人の実年齢は50才代がもっとも多いようです。次に30代40代、20代と続き、とかくテレビでクローズアップされたり報道されることの多い「キレる世代」などと表現される10代はそれよりもずっと少ない。

※この文章が書かれたのは2001年の頃ですが、2008年現在もこの傾向や統計結果は変わっていません。

まあこれはただ単に逃げ足の遅い人(体力のない世代)が犯罪やトラブルを起こした後であっさり捕まるので、そういった結果になっているとも推測できますが・・・・・。この数字が事件の実態や実数にどこまで迫れているかはわかりません。ただし、若い世代だけが問題を起こすのではなく働き盛りと呼ばれる人達や社会では分別がある歳だと思われている世代でも、そういったトラブルは頻発しており、実際に警察に捕まったり届け出があるのが実情でしょう。

JRや私鉄各社が行った車内トラブルのアンケート、暴力事件とかではなく痴漢の被害者への聞き取り調査でもそのような結果になっています。

影に隠れてしまっている部分を合わせれば実数や実態は異なるのかも知れませんし、凶悪犯罪とか刃物を持ち出して刺したなどで統計を取れば、こういった結果とはまた別の次元の問題なのかも知れません。確かに若い人の事例も出てくるでしょう。

ただ間違いないのは未成年者とか外国人、いわゆるヤクザ屋さん(?)ばかりが、駅のホームや町中で問題を起こすのではないということです。それは実際の事件の件数やこういった被害者へのアンケート、街で見かける光景が証明します。

街で迷惑をかけたり、問題を起こすのは未成年者や外国人ばかりではありません。自分では「一般の人だ」と思い込んでいる普通の人や働き盛りであったり、普段は良いお父さんとか人の良さそうな人が起こすトラブルも多々あります。

飲食店の経営者や警察関連の方に聞けば簡単にわかりますよ。お酒を飲んだ勢いで看板を壊したり、誰かに絡んだりとお店に迷惑をかける人の大半は「普通の人」です。特殊な商売をやっている人は少ない。飲めば気も大きくなってしまう。些細なことで問題が拡大してしまうこともある。

テレビとかマスコミ報道から受け取るイメージだけで考えれば、そういった結果にはならないでしょう。若い連中だけが大暴れしているような錯覚に陥ります。

確かに過去にくらべれば、未成年者のトラブルも外国人のトラブルも多くなっています。ですが、それは比較対照の方法とか集計の方法に問題があって、違う手法でアンケートをとれば一般の人(というか年配層や働き盛り)もあると思いますよ。

怖いというイメージは簡単に増幅します。元々、「異質だ!」と思い込んでいるタイプの人間に対する不信感や恐怖は、ほんの少しのきっかけで暴走しがちなんですよ。 相手の姿が特異であれば少量でも強烈に印象を残します。

ですから、よほど注意しないとやはり強い誤解や錯覚を生むでしょう。

それは私でも同じことです。特異である、ということは「特殊な仕事をしている」「見た目が派手」だとか「背が高い」「家で仕事してることが多い」というたわいのないものでも含まれることがあります。

私も最近は自宅で仕事してることが多いですからね(笑)。物書きとかデイトレーダー、通販業者などは自宅で全てが完結してしまうことがある。光ファイバー使えばバイク便が原稿取りに来るよりも速いですから。

写真入りの版下でもネット経由であれば届けるまでは一瞬です。自宅でせっせと仕事していても外目にはわかりませんから「怪しげな仕事をしている人」という枠組みとかイメージで近隣住人には括られているかもしれませんね。

コミュニティという考え方、ルール

人が集まれば生活があります。

そのそれぞれに価値観や生活習慣があり、物事の考え方や進め方は異なります。社会には大きな集団も小さな集団もありますが、その「集まり」(コミュニティ)そのものが一種の生き物のようで個性があり、様々に感覚は異なるのです。

コミュニティとは一種の枠組みです。

大きな「枠組み」としては国家があげられます。地方自治体や県(アメリカなどなら州)などもそうでしょう。学校や会社、宗教やイデオロギー、資本主義と社会主義なども含まれますね。大小様々なものがあり、時には複合する形で人は自分の場所を求めたり存在することになります。

それぞれの集まりや枠組みに、多くの人が含まれてそこで生活しています。

無人島に一人で住んでいない限りどこにも所属しない人はいません。どこかに所属しないと生活そのものが成り立ちませんから。どこかの国かどこかの会社(または学校)、家庭や集団に必ず含まれて組み込まれることになります。

すると、当然、その「コミュニティ」には多くの制約ができます。

自然にその「コミュニティごと」に約束事や決まりができるのです。面倒くさいですね(笑)。そこで生活する大勢にとって有害な物やトラブルとなるものを除くためにある程度のルールや取り決め、何らかの決まりごとが必須となります。そのコミュニティ独特の「感覚」「常識」ができるのですね。

最近は禁煙の場所も増えました。駅のホームやバスの停留所も禁煙になりましたね。航空機も全席禁煙です。私がこの文章を自分のホームページ上に載せた当時には気にしないで良かった部分も、時間の経過と共にそうではなくなってきています。

はっきり見える「形」としては法律や税制などが含まれますね。歩き煙草の禁止も市や県、自治体での条例で定まっています。通商、淫行条例(少年健全育成条例)なども同じ。国の法律では定まっていなくても地方自治体独自で定められた法律でも、罰金を取られたり捕まってしまうことはあります。

昔は良かったことでも時代背景や社会情勢の変化で徐々に変わって行きます。それが法律や法令であったり、契約とかマナーであったり常識であったりします。そのそれぞれがコミュニティのルールと考えられます。

どこかのマンションに住み、近所のコンビニに買い物に行くだけでもその義務は生じます。

ゴミを出すだけでもルールや取り決めは守らないといけませんし、破れば生活できません。皆が無視すれば無茶苦茶になってしまいますから・・・・。マンションやアパートを追い出されるでしょう。最近は契約書にもそういった部分はきちんと書かれている場合があります。

買い物をすれば消費税を取られますし、自分だけ「払いたくない」と拒否したり無視することはできません。

枠組みとしてはっきりとした形で見えない、法律にもなってないが、それでも「はっきりとして存在する物」には各自の「意識」があります。人々が自然に異質な物は遠ざけ、近寄らないようにするとか口を効かないなども含まれます。

自分達のコミュニティにあった「常識」で相手を計り、そこに当てはめようとしたり近付かないようにすることですね。

注意が必要なのは誤解や錯覚から排斥に繋がりやすい

先にも述べましたが、その「常識」の範疇(はんちゅう)からはみ出す人は受け入れられません。障害者とか見た目に異質な人(例えば金髪のお兄ちゃん)がバスで奇声をあげると、周囲が受け取ってしまう「恐怖」などがそれに含まれます。

よく観察してみるとインナー式のヘッドフォンで歌を聴いてそれを口ずさんでいるだけかもしれません。頭が金髪で見た目がヘビーメタルな感じのお兄ちゃんがへたくそな歌をバスで歌っていれば、周囲はそうは受け取らないものなんですよ(笑)。

コミュニティは「自分達」を守ろうとします。

これがコミュニティを生き物のようである、と私が表現した由縁(ゆえん)です。自分達の生活や集団を守るために、自分(達)とは異なる習慣、感覚、雰囲気を滲ませる集団、個人、団体を毛嫌いしたり、遠ざけて怖がるようにもなりがちなんですよ。

ある部分は仕方ありません。それは一種、家族や個人、大切な「何か?」自分の身を守るための本能にも近い部分を含みますから。(パーソナルスペースなどを参照)それは理屈ではなく感情であり生物に備わる本能なのです。

怖いものは怖い。異質だからこそ排除する。危険は家族や自分に近寄って欲しくは無い。そのためにルールと定め、それにプラスしてコミュニティ全体の総意、漠然とした雰囲気や明確な意思として働くルールがあります。それはある意味では防御反応ですからなかなか止められるものではありません。

ですが、これは気をつけないと危険なのです。時にそれは容易に差別や強烈な拒否反応に繋がります。特異な個性や感性の否定、弱者の排除、国際社会からの孤立とか移民への攻撃などにも繋がりやすいのです。

怖さや不安感に目がくらんで相手を最初から「否定する」所から始めると、いがみ合うことにしかなりません。元から話し合う意思がないですから(笑)。本当は好きな音楽を聞きながらヘッドバンギング(頭を振ること)を行っているだけの気のいいお兄ちゃんかもしれませんが、それをバスの中で見ている人はそう受け取らないケースがある。

目の前の席のお姉さんや子供が恐怖でブルブルと震えていれば、それは周囲からみると恫喝しているように思えるかもしれないですね。そこで誰かが悲鳴の一つでもあげたらどうなるでしょう?あっという間にパニックです。

相手の情報が行き渡っていないとか、何も知らないままで異質なものをストレートに受け入れるように人間は出来ていません。緊急用回路というか回避行動用のコードが埋められており、それに触れると無意識にガード(防御)を行ないように最初からセッティングされています。

そういった不幸な行き違いとか勘違いからも叩きとか排斥は起こりますよ。すでに社会ではそういった問題から、多くのトラブルが起こっています。

外国人と雇用、就労や住居に関するトラブル、学校や会社におけるイジメやリストラ、精神障害や身体障害者に対するいわれのない差別、騒音やゴミの捨て方によるトラブル、近隣に住む旧住人と新しい住人との間のトラブルなどです。

人種、宗教、イデオロギー、年齢、性別、性癖や趣味、趣向も含めて、様々な状況下でそういった問題は起こります。

精神障害者に対する偏見

精神に障害を持つ、というと、とかく危険な者のように言ったり思う例があります。

先にも書きましたが、人間は異質な物(者)を恐れます。自分の会ったことのないタイプや、これまでに触れ合ったことのないタイプ、コミュニケーションの手段を持たない者(言葉の通じない者、外国人)、雰囲気の異なる者には恐怖を持ちがちなんですよ。

元々、そういった偏見や錯覚を持ちがちな上に、そこにマスコミやメディアの作り上げたイメージが重なります。先に述べたような「キレる世代が暴れている」との作為的とも思える報道ですね。すると、本来、そういった世代を恐れる筈の無かったなかった人達もそちら側に傾いてしまいます。

以前に大阪の小学校に刃物を持って乱入し、8名もの尊い命、幼い子供ばかりを襲った男がいます。

※この初稿を書いた2001年当時にはまだ判決が出ていませんでしたが、その後死刑判決を受けて控訴しなかったため確定。2004年9月14日死刑執行。無縁仏として市の墓地に埋葬されたようですね。獄中結婚も含め計5回の結婚をしたと言われていますが、結婚相手は誰一人遺骨を引き取っていないようです。

一人の親族も遺族もそれまでの支援者も駆けつけなかった、と伺いました。

こういった犯罪を行うものが犯行後、精神障害者を装うことはよくあります。

その殆どは全て犯行後であったり逮捕後なのです。心の病を偽って罪を免れようとしたり、周囲に同情を得ようとか別れた奥さんとよりを戻そう、子供たちの関心を買おうと精神的な疾患を詐病したり利用することがあります。

殆どが嘘だと私は思うのですが・・・・。精神障害者が問題を起こしているのではなく、犯罪行為を行った者が精神障害や心神喪失を偽ることで、そういった方々に余計な不信感や危ないイメージが増幅したと考えています。

それが偏見になっているんですよ。

脳疾患や末期癌患者のふりをする、なども昔はありましたが今はCTやMRIなどが進んだためにそういった詐病は行いにくくなっています。そのために医者が病名をつけられるというか、バレにくい精神疾患を装って罪を軽くしたり情状酌量を狙ったり、家族にまでそう偽るケースが増えています。

「心の病だ」と言い張れば周囲が心配したり、罪が減じられるケースも確かにある。骨折とか癌とは違って治りにくいとか証明しにくい部分もあります。そう偽ることで周囲を脅したり、人を殺しても俺は無罪になるんだ、などと言い張った例もあります。

また日本においては弁護活動を行う側が加害者の罪を免れるためだけの道具として精神疾患や障害を持ち出す例が結構あります。これも非常に残念ですね。最初はそういった主張をしていなかったのに途中からそういった戦略をとるケースもあります。

他に情状酌量の余地がないとか、弁護するための道具がないので戦略としては仕方ないのかもしれないですが・・・・・。本来の法解釈の意味とか心神喪失とは異なる形で引用や多用が起こってしまい、誤解の種です。

酷いものになると「事前に覚せい剤を使用してたから無罪」などを主張しているケースもあります。

それで無罪になってしまうのなら、皆が犯罪前か犯行後に覚せい剤を買い集めますよ。それでいいんですか?それで罪を問われないということになれば法制度が崩壊します。気にいらない相手がいれば真っ先に覚せい剤を求めればいいのですか?

飲酒とは違い元々が違法なものの入手であり使用です。それを入手して犯行を行えばどんな残虐行為を行っても心神喪失で無罪放免になるのですか?

私にはどうしても理解できません。それが本来の法解釈の意味で「心神喪失に当たる」とは到底思えないのです。私が誰かに復讐したくなったら覚せい剤を買って直前か直後に打ち「前後不覚だった」「覚えていない」と言い張れば許されますか?

そういった弁護や過った判例が何例かあります。結果、一般人の心に不信として心神喪失とか精神的な疾患に対する不満が高まってしまっています。心神喪失を訴えて何人も殺したものが簡単に外に出てくるとの印象があったので、全部の患者が危険で危ないとの感覚が染みついてしまったのです。

コミュニティにおける最大、最低限のルール

宅間守死刑囚の事件は厳密に言えば、精神障害者とは違います。

確かに彼は心に闇は持っていたでしょう。まともな感覚ではなかったと思います。裁判中に幼い家族を失った被害者遺族に何度も罵詈雑言や中傷を浴びせて最後まで「ざまあみろ!」と叫んだような男です。心が荒んでいたりおかしい部分があったのは間違いないでしょう。

ですから異常者には間違いありません。彼の心の中には相手を思いやる心が欠片も存在していないのですから。普通はそこかに良心の呵責(かしゃく)とか罪悪感を持つものです。人間性善説を唱える方々はたくさんいらっしゃいますが、心理学者や精神科医にもそういったものの信奉者は多い。

できることならば、どんな凶悪犯の心にも「良心が存在して欲しい」との願いというか祈りにも近いでしょう。どんな残虐事件を起こそうともどこかに良心を持っていて、遺族に謝ったり反省して処刑台に登って欲しいとか謝った後で罪を償ったり処罰を受けて欲しいとの願いは多くの人の心の中にあります。

人間がそこまで酷い、とは思いたくないですから。

宅間守の場合は終始、世間を社会を親や家族、別れた妻や同級生、あげくは何の関わりもない一般市民や子供たちを呪い、罵倒し中傷しながら絞首刑台に上がった男です。一度の謝罪もなかった。おそらくですが、その頭の中には遺族への反省も謝罪も存在しないでしょう。

あったとしてもごく少数です。ほんの少しだけどこかに後悔はあるでしょう。ですがそれはむしろ、自分がヘマをやったとの思いであり「次にはうまくやれる」との思いかもしれず、反省や謝罪の気持ちの数倍も社会を憎む気持ち、自分の置かれた環境や親や周囲を怨む気持ちが強く、そちらが常に心の中で勝つために謝罪の言葉や態度など殆どみせなかったのだと思います。

確かにおかしい。ある意味では精神を病んでいます。ただし、こういった人達を「精神障害者」に混ぜるのは誤りです。

何の罪もない人を巻き込んで地下鉄にサリンを撒いたような異常な集団もあります。自分達の身勝手な教義を常に引きあいに出し「我々は社会を救っているんだ!」とのたまう。そのためには誰を殺しても「神の意思だ!」と叫びます。

そこには何の思いやりもなく身勝手なひとりよがりだけがあります。家族や周囲、社会の多くに迷惑をかけ自分達の権利ばかり主張する愚かな集団だと思います。それはもはや教義でも宗教でもない。

どんな教義も宗教も守らなければならないルールがあります。コミュニティの根本、ルールの基本でもっとも大切なものは極めて単純です。

「人を殺さないこと」ですよ。

皆がそれぞれにルールに縛られている。どこかで生きている限り縛られます。不満や不具合もあるんです。好きで縛られているのではない。それでも守らなきゃいけないルールがある。それを皆が踏み外すとコミュニティそのものが崩壊するから。その根本の部分を彼らは自分勝手に曲げてしまっている。

思想も教義もイデオロギーも根本はコミュニティを守るため、本来は人々が「生きるため」に存在します。

適当な教義とか宗教、育った環境を理由に「何をやってもいい」は当て嵌りません。自分の身勝手のために犯罪行為を行って良いとか法律や規則、ルールを無視していい、まして周囲を傷つけたり命を絶っていい、というものではない。それならどんな国にも住めませんよ。それは異質というだけではなく異常者であり、コミュニティを脅かすものだからです。

自分達が他人に傷つけられたとか虐げられたから「誰かを殺すのは自由だ」とか「精神疾患を持ってるから」「過去にいじめや虐待を受けたから」殺していいんだには決してならない。

最近は一部の人権派を自称する人達もそれを助長しています。最近は精神障害を殺人犯を助けるための道具、思想を押し付けるための理由にしてしまっている雰囲気があります。本来はそういった意図で作られた法令、特例ではないと思うのですが・・・・。

PTSDなどもそうなんですけどね。訴訟時に賠償金吊り上げるための道具のように扱っている連中もいます。PTSDにかかった病人(?)が事件からたった数日でマスコミ各社から堂々とインタビュー受けてるのをみる流石に驚きます。

PTSDとは本来、経過観察によって診断されるものです。少なくとも数ヶ月は反応をみるでしょう。ベトナム帰還兵などがこういった症状を起こすので名付けられた病名ですが、彼らも経過観察を経て診断を受けています。直後ならPTSDという病名はつかない。それが「疑われる」というだけ。多少なりともまともな医者ならそういった診断はしないでしょう。

外に出てくることができて話すことができる。声に震えとか脅えもみられない。それが事件後たった数日ならば、いったい誰がPTSDとの診断をくだしたんだろう?と不思議にも思いますよ。おかげでそういったものへの偏見も増えて、今ではなかなか診断書が出なくなりました。提出しても詐病のように扱われるからです。

後で詳しく触れますが、精神的な障害を持つ人々を特例として扱い罪を問わなかったのには日本の歴史的な背景もあります。少なくとも無辜(むこ、なんの罪もない人達)の者とか社会的な弱者、女子供や妊婦を連続で惨殺する犯人を擁護して助けるために作られた法律ではありません。

困るのはそういった詐病とか本来の使い方とは違う解釈を一部の人達が繰り返しているため、本来はコミュニティで助けてもらったり大目に見てもらえる筈の人達、恩恵を受ける筈の人達が偏見で見られ、差別に苦しんでいることです。

違いを認識して欲しい

そういった事件を引き起こす連中、トラブルを起こす彼等は確かに精神を「病んでいる」といえば病んでいます。ですが、そういった人達を「精神障害者」と呼んで、ひと括り(くくり)にするのは間違いです。

犯行を行う者には自分で自分の行動を選び、動くだけの意志と能力、身体があります。介助や介護が必要ではない。金銭的な余裕がある者も多い。車持ってる連中もいますよ。犯罪を行う前に周到に計画を練ったり下見に行く事すらある。それのどこが心神喪失なのでしょう?

責任能力がない「精神障害を持つ人」はそういった計画的な行動がとれないのです。悪意を持って何日も待ち伏せるとか下見をすることができない。入り組んだ計画を行うとか、隠ぺい工作を執拗に行うような「能力がない」からこそ除外されるのです。突発的なもので計画性がない。悪気や作為がない。

だから形式上は事故とか過失致傷に近い扱いになりました。

そういった犯罪を行うものの多くは車の運転だってできます。どうやって?結局は教習所に通うか試験に受かるしかありません。社会生活において運転免許まで取得できてるのに、犯罪の時には精神病や障害者を詐称しますか?

おかしな話です。あちこちで堂々と自分の身分を偽り、偽物の名刺すら用意します。また、それを自分で作るだけの能力があります。そこまでできるのですから犯罪に対しても「責任能力はある」と思いますよ。

光市の母子殺人事件でも同じです。泣き叫ぶ子供の横で屍姦行為なんて普通の男なら出来ない。帰りますよ。少なくとも証言も抵抗も出来ない赤ん坊を殺す必要はない。無視すればお終いです。はっきり言えば用は済んだのですから。

幼い子供を殺さなければ最初から死刑判決などはなかった。面白半分に子供を殺したから、罪が重くなったのです。

アメリカでも少年法に準ずるものはありますが、光市のような事件ではどの州でも結局は最高刑になるでしょう。理由は簡単です。犯人が自分よりも「更に幼い子供」を惨殺しているから。

中高校生が小学生を銃で撃ち殺して死刑判決や終身刑を受けた実例があります。アメリカは子供の人権にうるさい国です。うるさいしそれを守るからこそ、幼い子供の命を奪った場合には未成年者でも厳しく罰せられる傾向があります。

犯行時において「証言ができない」ということはとても重要です。盲目の人の前で誰かを撃ち殺したとしても証言はできません。姿形を見ていないし証明ができないから。通常なら犯人は証言のできない人は見逃します。そこで殺しても何の意味もないからです。お金が貰えるわけではないですし罪が増えるだけ。万が一、捕まった時に罪状が増えて刑期が長くなります。

死刑のある州なら死刑になってしまう。ですから撃ち殺さずにそのまま逃げる。損得勘定ばかりでなく犯人の良心の呵責(かしゃく)もあるでしょう。撃ち殺すとしたら遊び半分しかありません。少なくとも裁判所や判事はそう受け取ります。

罪は飛躍的に重くなります。

アメリカでは証言ができない者(例えば盲目であったり、老齢者や口がきけないような幼児)を撃ち殺すと獄内で壮絶ないじめに遭うとも言われています。嫌われる順番は児童虐待者、女性に対する虐待、裏切り者(密告者)だそうです。自分達も恵まれない立場とか、親にいじめにあったり辛い環境にあったからこそマフィアになったり犯罪に手を染めることになったのですから、子供を虐待したり弱者を殺す者には強烈な反感を持つようですね。

この辺の感覚も日本とは違います。ペドフェリア(幼児性愛者)を繰り返したり、とか子供を虐待したり殺害した者は独房に入れないと殺されると言われます。刑務所というコミュニティ内でもルールがあって徹底して嫌われるのです。

光市の事件はその後、屍姦行為を行っています。性的暴行が目的で押し入ったと最高裁では断罪しています。ところが激しく抵抗されたので殺した。逃げることすらしなかった。あげくに性行為を行って子供を「その後で惨殺」したことになります。

母親に甘えようとしてうっかり首に手が当たってしまっただけ、とか言い張ってるのをみると正直、吐き気がします。それで人は死なない。弁護団や被告の言う通りだとすれば誰一人死んでいないでしょう。人が二人、現実に亡くなっているという事実を見ていないかのような作文に思えます。

普通はどんな凶悪犯も性行為の後は大人しくなります。そこで黙って立ち去ればいいものを更に幼い乳幼児まで殺している。

性行為を行った時点で彼は子供ではありません。大人として扱うべきです。強姦は大人の男にしかできない犯罪です。体格も大きくて大人の女性を組み伏せることができる。しかも絞め殺すほどの力があって射精する能力があったから行為に及んだのです。

それで子供ですか?私はそうは思いません。

これが強盗とか窃盗目的で犯行がバレたので留守番していた家人に見つかって犯行に及んだのなら法解釈も異なったでしょう。その場合なら子供は置いて逃げます。結果、死刑判決は出ていない。ご遺族である本村さんも子供だけでも生き残っていれば、その子を育てるという目標も持てた。

その全てを奪った犯人が激しく憎まれたり社会に疎まれるのは当たり前でしょう。

強姦や屍姦する時は堂々と大人になっておきながら、自分が捕まって裁きを受けろとと言われた時だけ「18歳と1ヶ月だから子供扱いしろ!」と言い張るのは流石に無理があります。

彼らは常に「弱者」ばかり狙う

日本ではなぜか罪を問われた時だけ記憶喪失になったり、心神喪失だったと言い張る加害者がいるようですが、あり得ないと思います。心神喪失状態、という言葉をどんどん拡大解釈して誰にでも適用すれば、余計に誤解や錯覚が広がりますし司法に対する不信感が高まります。

宅間守死刑囚も近隣住人への嫌がらせ、駐車している車をパンクさせたり待ち伏せして誰かを殴るなど、悪意と計画性を持ったトラブルが執拗にあったことが、事件後に発覚しています。別れた奥さんへの執拗な嫌がらせや暴力があったとの報道もありました。そういったトラブルに見舞われた人達も生きた心地がしなかったと思います。

常に相手を怒鳴りつけて恫喝し続けている。社会の全てが悪いと言い出しますし、自分に落ち度があるとは思わないものです。

オウムのようなカルト集団の行動もこの種の事件を起こした連中はよく似ています。両者に共通するのは事前に身分証明や名刺を偽造したり下見をする、作業員の服装を準備したり犯行が発覚しないように隠ぺい工作をしている。

高い計画性がある。知能がないとか考える能力がないとは思えません。

自分に都合のいい論理を相手に押し付け、弱者を選び、気にいらない相手には訴訟を繰り返しています。困ったことにそういった部分までかなり似ていますね。

反社会的、反道義的な行動を繰り返し、明確な意図を持って誰かを攻撃するものは「障害者」精神疾患がある人とか心神喪失者とは異なるでしょう。「異常者」と「障害者」は明確に違うのです。

今後の裁判で精神疾患とか心神耗弱で罪を減じられる偽物の障害者が増えないことを望みます。

確かに一部の精神障害者には状況によって攻撃性はあります。突然、叫び出したり暴れる者もある。が、持続しません。突発的な動きや音とか車に驚いてパニックになるトラブルはあるかもしれませんが、カルト宗教や一部の異常者のような計画的な犯行、執拗で悪質な行動とか惨殺行為は行わないでしょう。

偶発的な「事故」ではなく計画性を持って準備していること、ターゲットととしたのが弱者であって強者(例えば幼政治家や警察官、自分をいじめた同級生や親)に向かっていないことがそういった連中の悪質さの証明です。

弱者である女性とか子供、老齢者に被害が集中していることが彼らが卑怯者である証であり精神に障害のない証明なんですよ。周囲にいる成人男性とか恨みがある者に「いきなり斬り掛かった」ならまだ話はわかる。目をつけて下見をして、更にそれが社会的な弱者とか子供とか老齢者である場合、それは意図的な選択であり保身が働いていることになります。

そもそも観点がズレています。「精神に障害があること」が問題なのではなく、危険思想を持ち、社会に迷惑となる行動、反社会的で迷惑なを繰り返す者が問題であり、本来は取り締まりや処罰の対象となると思います。

責任を問われないように「精神障害者」のふりをして命を長らえ、また同じ犯行や行為を繰り返そうとする者になぜ、社会が手心を加えなければならないのでしょうか?

それも殺したのが幼い子供とか妊婦、抵抗出来ない老人や障害者だとしたら?

それが正義ですか?殺された子供達に罪はありませんよ。私には納得できない。

それは障害者ではなく異常者です。そんな者と一緒にされる障害者、障害者を支えるご家族や医療関係者こそ、いい迷惑ですよ。何でも一緒にして都合よく使うものではない、と思います。

私は自分の「過去の痛み」「虐待やいじめ」を理由に弱者に向かう連中が大嫌いです。いじめた本人とか恨みのある者、強者に立ち向かうなら多少は理解できる。

過去の体験や育った環境を理由に女性や子供、老齢者を襲う者が事件後に弱者(障害者や精神疾患)のふりをするのがどうしても気にいりません。

過去の制度、現行の法律

刑法39条にこういった条文が載せられています。

第1項

心神喪失者の行為は、罰しない。

第2項

心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

意味を簡単に解説すると「心を失っている」または衰弱して弱っており、正確な判断ができなくなった者は罪を問わず(もしくは、減刑)し、大目に見よう、といったシステムであり法律です。

日本は解釈があいまいな部分がありますから、この条文を拡大解釈して様々なケースに当て嵌めてしまっていることがあります。

最近はこの条文について、耳にすることも多いでしょう。

この法律が制定されたのは古いです。明治40年(1907年)に基本的な骨子が整えられて昭和22年(1947年)に改正が加えられています。1947年といえば大東亜戦争(第二次世界大戦)終結後2年目。GHQがまだ日本に進駐していた頃で日本国憲法の施行(憲法施行は同年5月3日、刑法は10月26日)も同時期ですね。

憲法や刑法はアメリカの意図や思惑もあって整えられた部分はありますが、この法律だけは少し事情が違います。明治40年の時点でも日本において心神喪失者に対する温情とか刑罰を減刑するとの記述があります。

その法律、制度には深い意味や尊い精神があります。ただし、その意義とか意味は素晴らしいのっですが、先人の知恵を取り違えて理解したり、一部の犯罪者やあちこちでトラブルを繰り返す団体が拡大解釈を繰り返そうとしています。

「この法律は自分(達)が、犯罪の責任から逃れるために利用できる便利なものだ」と思い込むような者がいて、私はつくづく気分が悪くなります。

少年法も同じですね。法律の本来の意味を自分達の都合の良いように曲解したり、利用しようとする連中が後を絶ちません。私はその現状をとても嘆かわしく思っています。

少年法や刑法39条の是非は別として、ここでこういった制度や法律の生まれた歴史と背景、時代情勢や当時の考え方の解説を試みます。

こういった法律の施行された過去をたどれば、文献として残されている最古の物としては、大宝律令(AD700年6月17日から701年8月3日。施行は翌702年10月)にまで遡ります。そういった法律の制定そのものははかなり古いんですよ。明治どころか千数百年以上もの昔。そんな遥か昔にこの法律の原形が整えられたことになります。

大宰府管下の西海道諸国には、「大宝律令」の完成と同時に配布して実施したのでないかと推測されており、律令政府(当時の政府)がいかに新令の公布に積極的であったかがわかるそうです。

これは今から千数百年も前から、そういった障害、精神的な疾患について、人々が深く考えて探ってきたことを意味します。

※大宝律令について詳しくは、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会のホームページに参考資料が載っています。少々難しい文章ですが、興味がある方は参照して下さい。

興味深いのは日本のみならず、キリスト教の聖書にもそういった記述があります。大宝律令よりも更に古く2千年近く前ですね。もっともこれは法令とかではなく宗教上のお話ですが・・・・。当然、仏教やイスラム教にも似たような記述が存在します。

精神的な疾患とか精神薄弱者、考える力を持たない者には「保護を加える」「罪一等を減じる」といった考え方が大昔から存在していたことになります。

なぜ、お咎め(おとがめ)はなかったのか?

基本的にはそういった「罪一等を減じる」措置を受けられるのは、生まれた時から思考能力を持たなかったり、事故や病気(高い発熱等)で社会生活が営めなくなった者に限定されていたようですが。

現代のように「犯行前までは普通に生活していて」しかも「を飲んでゲームセンターに行って」「犯行の直前まで車の運転をしていた」者などは含まれません。

江戸時代にも心神喪失や、乱心者(狂人)については、「お咎めナシ」という制度がありました。大宝律令の頃からずっと日本はそういった形式になっています。明治時代の刑法はその頃からの流れを引き継いだものです。

意味合いは現行の法律と同じですね。心を失う(乱心)して、起こした事件ですから「勘弁してやって欲しい」といった届け出を家族なり周囲(だいたいは上司)が行います。それが認められた場合には責任を問わない、お家のお取りつぶしを行わない、親族への影響や連座制をとらないといった制度は江戸時代にもあったのです。

現行の制度の幾つかは、過去の制度や法律、歴史の影響や流れを引き継いでいます。江戸時代とか大宝律令と書くとなにやら遠い昔の話のようですが昔の法律に現行のシステムがまったく影響を受けていない、とは誰も言いきれないでしょう。

法律ができ上がった理由に、この制度が施行された当時の時代背景、宗教観や社会情勢があります。

武家の社会において、「異常者」とは、そのコミュニティを脅かすものでした。

江戸時代の枠組みは完全に縦割りの社会になっており、上司の命令は絶対です。江戸幕府は士農工商という身分制度によって運営されていました。

誰かが逆らえばその制度そのものが成り立ちませんから、幕府も強気に出ます。システムを守るためにも法律や枠組みを定めて厳しく取り締まる必要があったのです。そこが緩めばそれはそのまま幕府の崩壊を意味します。下克上と呼ばれた戦乱の時代に後戻りする訳にもいかないので厳しくする理由もあったんですね。

それで「異常者」とか幕府に逆らう者には高圧的になった。下手をすればその「たった一人の乱心者」のおかげで、お家はお取りつぶしになってしまいます。

当時の江戸幕府は財政の負担、政治上の都合もあって各地において盛んに「家」とか大名を潰しています。ですから、それは決して他人事ではなく、少しのきっかけやトラブルからも十分に起こりうることだったのです。

それは武家のみならず、「村」とか商家にとっても他人事ではありません。

予断ですが、幕府との親密な関係を利用してのし上がり、政商とまで呼ばれた豪商(大阪の淀屋、紀伊国屋文左衛門などが典型)も例外ではなく、些細な出来事を理由に強引に幕府の命令によりお取りつぶしになってしまっています。

理由は今だにはっきりしておりません。大阪の淀屋橋にその名が残され、財産目録を読み上げるのに数日かかった、とされています。日本初の水族館(金魚を天井のガラスに放した)などの逸話が数多く残されていますが、なぜその大店(おおだな、今でいう巨大総合商社)がお取り潰しになったのか、の正確な理由は残されていません。

様々な説はあるようですがどれも根拠や検証に欠けています。

どんな世界でどういった時代にも跳ねっ返りは居たんですよ(笑)。現行法や幕府に逆らうような反抗者も出てきます。上司や部下の命令を聞かず、自分の考えのみで身勝手な行動をとる人もいましたし、地位やお金を手に入れた途端に強引な行為や無理を行う者も、力を持ったことで自惚れてしまう人も出てきます。

そういった「異常行動」つまり、反社会的な行動を行う人は「革命だ!」と思っていたり、ご本人は正しいと思ってやっているのかもしれませんが、周囲にはその言動がそうは映りません。枠組みとかコミュニティが荒らされて破壊されるように思う。

そういった人達が当時の幕府やお家、社会の枠組みに対し、迷惑とも思える行為を執拗に繰り返えせば「コイツを何とか潰そう!」とも思うようになるでしょう。

部屋住みの三男坊ともいいましたが、当時は長男以外はなかなか家を継げなかったのです。継げても次男まで。戦乱はとっくに収まってしまって安定期に入っています。武家の社会は世襲制になってしまっており、華々しい手柄を立てる場所がない。

出世するどころか仕官出来ないもできない。浪人者も溢れて不満も高まってくる。お役(仕事)につけない苦しみのために暴走しているのかもしれませんが、ともかく、酒を飲んで暴れたり町人を脅したり博打や色事に走ったり窃盗や辻斬りを働いたりと普通の人とは異なる行動をとります。

で、結局は社会とか家でも疎まれ(うとまれる)嫌われてしまったり、場合によって捕方(当時の警察)に捕まってしまうことになる訳ですが・・・・・。そういった時、ご本人の家族とか上司や部下などの家族や親族が「恐れながらあの者は心の病で」と、お上(おかみ)に申し出ることになります。

運が良い場合はその申し出が管理者側(当時の施政者)に受け入れられます。

問題を起こした当人は厳しい処分(今でいう所の強制入院、閉門や蟄居、下手をすれば一生幽閉、病死扱いで殺される場合もあった)を受けますが、お家やそのコミュニティは「お咎めナシ」になります。

の使い、という考え方があった

裏話になりますが、これは一種のガス抜きの部分がありました。

あまりに管理を厳しくしすぎると不満が高まります。その決定が御定法通り(当時に定められていた法律の通り)だとしても、あまりにも画一的だと恨みも買いやすいのです。

現政権(当時の幕府)へのあまりの不満とか内圧が高まれば、大規模な一揆とか内乱や反乱にも繋がりやすい。お取り潰しが確実な例であっても、幾つかを「お目こぼし」することで借りを相手に作る事もできる。恩を売ったわけです。

それが結局、幕府を支える力になったり不満分子が結託することを防ぐ効果もあったようです。

社会を管理統括する側からすれば問題を起こしたご当人はともかく、その他がしっかりしていれば、御定法通りにその枠組みを丸ごと潰してとっぱらってしまうよりは、特例として温情をかぶせてそのまま誰かに引き継がせて残したほうが、多少は言う事も聞くだろうし得策だろうと考えた訳ですね。

現在のリストラや銀行主体による会社の建て直し、会社更生法の適用などとも似ています。

気にいらないからといって新経営陣が全員を首にすればまとまりませんよ(笑)。業務が止まります。引き継ぎをやることすらできませんから。

乗っ取りとか買収であっても、内部にシンパとか新しい「政権」(会社の場合には経営陣)と結びつきを深めてくれる人がいないとうまくいかないでしょう。これは軍事行動でも同じですが、侵略したり制圧したい国であっても、全てを力づくで無理やりに押さえつけるだけだと根深い反発を食います。

何年も徹底抗戦する例も出て来ます。住む場所を奪われ、家族や親族を殺された恨みというのはそれだけ根深いのです。そういった状況が続くと結局は「皆殺し」(なで切りと当時は言ったそうです)にするしかなくなります。

それだと乗っ取ったり制圧した意味がなくなる。税を払ってくれる領民、働いて米を作ってくれる農民がいなくなりますから・・・・。回復には何年もかかるのです。支配者層はともかく、一般民衆を弾圧する施政者や侵略者が歴史上で馬鹿と言われる理由は「なで切り」ではあまりにも得るものが少ないからです。

また当時、社会を混乱させ迷惑なだけにも感じる「乱心者」が、なぜか法律によって許された(死罪を免れた)背景には、もう一つこういった理由があります。

太古の日本社会、初期の日本における政(まつりごと、政治)において、「精神異常者」とは、「神と交信できる人」と同義語であった時期があります。占いとかシャーマニズム、選託(占いや神のお告げにより選ぶ)は、生活とかなり密着していたのです。

安倍晴明のようなシャーマン(占い師、神官、陰陽師)が国政や政府の根幹に深く関わる人も少なくありませんでした。日本においては陰陽師のみならず、修行者や修験者、巫女や神官、坊主や占い師などがこれに当たります。

彼らは歴史のあちこちに影のように寄り添って出て来ます。興味深いのはそういった状況は和洋折衷全て同じで、歴史はヨーロッパ各国やアメリカ、中国に至るまで様々な形で「シャーマン」(ある種のトランスに陥る人々)の干渉を受けるのです。

御神託(神から何かを聞き取って選ぼうとする)を行うために、修験者や神官等は「ある種の」手法を行います。一種のトランス状態に入るために、何日も絶食したり山やお堂に篭(こも)ったり、延々と修業を繰り返すのです。身体の感覚を研ぎ澄まし、五感を開きます。

その五感、人間が感じ取る限界を超えた部分(別名、第六感)神と呼ばれる存在、人とは異なる大いなる存在や、次元を超えた「何か?」大きな存在から、何らかの情報を聞き取ろうとする習慣があり、各地に様々な儀式があったのです。

今とは時代が違いますからね。当時はパソコンも気象衛星もなかった。電話もメールもなかったでしょう。天気の長期予想とか農作物の迅速な輸送手段もありません。ダムとかもない。防疫に関する知識もないですし、衛生についても知られていません。

ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した時は全人口の3分の1近くをを失いました。が、病を媒介するネズミの駆除などを行なわなかったためです。遺体を焼くとか近付かないなどもしなかった。結果、爆発的な被害を生みました。

人々がバタバタと死んで行く。理由はわからないし医療もない。そりゃ神に祈りたくもなるでしょう。

飢饉が発生したり長雨が続いたり、日照り、地震や火災、疫病や戦争が発生すると人々は次々に死にます。吉兆を占ったり、縁起を担いだのはそれだけ「死」が日常であり身近にあったからですね。

その一部は現代にも引き継がれています。各地に伝わる祭りとかお払い、お参りやおみくじなどですね。

※余談ですが、もしかすると私の行う「催眠」などもそういった範疇(はんちゅう)に含まれるのかも知れませんね。深いトランスに移行する人の場合、他人とは異なる鋭い感覚や、異なった才能を現す人もいますから。

気が「異なる」人達

調べてみると興味深いですよ。アメリカのネイティブ・インディアンから始まって中国の占い(陰陽の技術は大陸からもたらされたもの)インドやチベットの密教や仏教、ヨーロッパのジプシーに至るまでありとあらゆる場所にそういった記述がありますから。

現在ではひと括りに「あの人はキチガイ(差別用語です)だ」などと揶揄したり、「精神障害」とか、「異常者」といった安易な言葉や枠組みにしてしまう場合が多いようですが、昔は異なります。

「きちがい」という言葉は、そもそも差別用語ではありませんでした。遥かな昔は「気が異なる(違う)人」という意味で、誰かを差別したり、悪く言うための言葉ではなかったんですよ。

すなわち普通の人とは異なる気、つまり「鋭敏な感覚」(第六感、御神託)を生まれながらに持った人、との考え方もあったようで、コミュニティ(村や国、社会)が手厚く保護を行ったこともあります。

映画「レインマン」(ダスティン・ホフマン主演、トム・クルーズ出演)の中でも、一部紹介されていますが、精神障害者だと言われている人が、特異な才能を発揮した例も数多くある。不思議なのは一般人どころか、最新のコンピューターがどう努力、予測しても到底追いつかないような特殊な才能、能力を発揮する例もあります。

確かにそういった方たちは一部が壊れています。まともな受け答えとかは期待できず一般的な仕事に従事したり、普通に生活はできない。ただし普段はおかしな行動ばかりしているのに、何かのきっけかで素晴らしい特異能力を開花させたりみせる者もいます。

おそらくは過去の事例から、昔の民衆は経験則(けいけんそく)でそういったことに気がついていたのでしょう。

まだ、コンピューターも天気予報も人工衛星もない時代ですから「気の異なる人」が何かの予想とか予言とかを行って的中したら、それはそのコミュニティ全体の生と死を分けます。とんでもない恩恵なんですよ。やはり予測して欲しいのは大地震とか大火とか疫病、特に飢饉でしょうね。

いつ起こるかわからないものです。誰かがそれに気が付いて一度でもそれを避けられたとしたら、それは迷信とかただの偶然程度では済まないのです。飢饉の時に雨ごいをして偶然でもいいですから一度でも雨が降れば神と崇めたでしょう。

「託宣」(たくせん)という言葉がありますが、これは神から託された言葉、すなわち神懸かりを意味します。巫女さんとか神官とか占い師などはそういった形で受け継がれてきたものです。

ですからそういった特異な人(能力者)が一族から出た場合、その社会、村とか街、家などのコミュニティで神官や巫女として奉り、保護を加えた例も多いのです。

気が違う人をコミュニティが保護したのは、そういった血筋とか家系の中からも特異な能力者が生まれたり、神に近付いている人達だとの感覚があったからではないでしょうか?

そういったものの適中は幾つかはただの偶然だったのかもしれないですが・・・・。現代なら検証もできるし追跡調査も可能でしょう。当時はそうは受け取られない。

竹の華が咲くと飢饉が起きるなどの言い伝えもありますが、そういった自然の変化とか山の動植物の動きに敏感で、変化に反応できるだけの感受性とか知恵が授かった家系とか一族だったのかもしれないですね。

江戸末期にはすでにそういった意味合い(巫女、神様のお告げとして)は薄れていましたが、しばらくは昔の名残もあったでしょう。大切に保護した例もあるのです。

心は、どこにあるのか?

大宝律令などの過去の制度に書かれている内容は1300年も前に書かれたとは思えないほど素晴らしいものです。下手をすれば現行の制度よりも一部は優れているのかもしれない。これは凄いことでしょうね。

1300年も前の内容にもかかわらず、精神障害者に対する社会の応対方法から支援制度に到るまで詳しい記述があります。

社会的な弱者とか障害者に対して保護を加え、それを明文化してあるということは当時の社会(コミュニティ)の成熟度を指します。戦乱に乱れ、人々が個々の生活に精一杯の状態では弱者の救済や保護は決して行われません。

正直、それどころではないから。皆生き残るので精いっぱい。政治も定まりませんし、法律も整わないのです。

自然界において、何らかの状態で餌を取れなくなった個体は死ぬしかありません。一部の特殊な例を除いて保護はめったに加えられないのです。自然界では弱肉強食の掟の通り身体に障害を持つ者は先に食われ、生きていけなくなることがかなりの確率で起こります。

まして、それが手足とかではなく「脳」であったり、群れとしての統率行動のとれない個体であれば尚更でしょう。彼を庇うことは群れそのものの危険を意味します。

人間社会のみが精神に障害を持つ人も社会の一員だと捉え、保護を加えます。また、何らかの事件を起こしても罪を減らし、罪を問わないでおこうとします。興味深いのは現在過去、西洋東洋の分け隔てなく、どの時代、どの地域にも似通った共通の概念や考え方があるということですね。

本来、社会に多大な影響を与えかねない人、全体としては負担にしかならない存在を「心がここにないのだから」罪を問わない、社会全体や法律で保護しようといった考え方は人間特有なものです。

(宇宙とか異次元は知りませんが)地球上において、人間以外の動物で「心を保護しよう」とか「心がここにないから罪を減じよう」などと考える生物はいないでしょう。

では、その「人の心」とはいったい、どこにあるのでしょう?

それを突き詰めて考えれば、魂(たましい)などの概念に到ります。人間が「どこから生まれてどこに帰るのか?」にも等しい、生命の根幹とか人間そのものの行方を問う難しいテーマにぶつかってしまいます。

少なくとも人間は「心」がどこかにあって欲しいとは望んだようです。自分達の世界とは別に保管場所というか戻るべき場所があって、人間という器の中に「いつか移される」とか戻ってくるとの意識があって、そのために「魂」とか「心の定まらない人」の罪は問わないでおこうとの慣習が生まれたのではないか?と推測します。

ここまで色々と過去の事例も引きあいに出し、解説を行ってきましたが、人間が精神に障害を持つ人を保護し、社会で補助してきた背景には、人間の持つ独特の倫理観、輪廻転生や「生と死」観「魂の行方(ゆくえ)」論争があります。

人間は遥かな昔から「心がどこにあるのか?」わからないからこそ、崇め(あがめ)、守ってきたのかもしれませんね。太古の昔から、死ねば天国や地獄に行くだとか、リインカーネィション(輪廻転生)だとか、様々な考え方と方向性を各種宗教団体や哲学者、科学者が論じてきましたが、未だに明確な解答は出ていません。

未熟な私などは精神障害を持つ筈の人の行動を見れば、尚更、それ(人の心の動き、存在)が不思議に思います。

大脳生理学者とか科学者とか医者なら、私とは違った見方をするでしょうが、私は基本的には心理学寄りであり催眠術師ですからね(笑)。当然、人間の心とか被験者の表情や反応、動きのほうに興味はあります。

精神に障害を持つ方がフッと我に返り見事な受け答えをする時もあります。私達では到底考えつかない、驚くような視点に立つ発言、彼らの生んだ素晴らしい創造性、芸術もあります。赤ん坊が虚空をみつめてニコニコ笑っている姿と、どこか共通するものがあります。何かが見えているのではないか?と思う瞬間がある。

山下清さん(放浪の画家、裸の大将、とも呼ばれました)の絵なども感動させます。私のように、催眠とか心理学のようなちょっと変わった仕事に携わる者は、その素晴らしい出来栄えにとても不思議な気持ちが起こります。

小学生の頃、山下清さんの切り絵(ちぎり絵)を女性の担任教師にみせられ「この人は気違いなのよ。信じられる?」と言われた時に凄い衝撃を受けた覚えがあります。

今では考えられませんが、当時の教師の発言です。クラスメート全員の目の前で堂々とキチガイだ、と言い放ちました(笑)。今のように厳しい時代ではなく、おおらかな時代だったんでしょうね。今、教師が生徒の前で芸術作品を前に「製作者がキチガイ」などと発言すれば大変なことになりますよ。

裸の大将放浪記みたいなドラマがヒットするよりも遥かな昔のお話です。

コミュニティが精神的な障害に対して保護を行う理由は様々でしょうが、人間だけがそういった「精神」つまり、「心」とか「魂」に対して、「肉体とは別の次元のもの」として捉え、「どこかに必ず存在するんだ」と考えたのでしょう。

だからこそ、それを尊敬し尊重したのです。少なくとも太古の昔から大切に扱ったことは間違いないでしょうね。

コミュニティの心理学、パート2に続く