コミュニティの心理学2
2008/04/23加筆修正
2002/05/01改訂
1997/09/01初稿
正常と異常の違い
精神障害と異常者との違いについては先に述べました。
では、異常者と正常者の違いとはなんでしょう?私も講演会や実演のおりにそういった質問を受けます。凶悪事件や凶悪犯罪の後では尚更、増える傾向のある質問ですね。
一般人から心理学者、自称、専門家から政治家まで皆が難しく考え過ぎるようですが、私の解説はしごく簡単です。
異常者とはただ一言で表現できます。
それは「コミュニティを脅かす(おびやかす)者」です。
実際には、異常と正常を明確に分けるものはありません。数多くの相談者、心の悩みを抱える者と向き合ってきた私の偽らざる感想です。「私はおかしい、私は異常だ」「私はおかしくない、私は正常だ」と告げる人は、それぞれにたくさんいますよ。
相手の発言を真に受けて、そういった人達と会話していると混乱しますよ。異常だ、と言っている人の受け答えがまともで、「正常だ」と言ってる人の受け答えがまったく理解できないこともままあるからです。
実際問題、私は「正常だ!」と言いながら、大勢に迷惑をかける人はいますよ。「私は異常だ!」と言いながら、他人に温かだったり優しい人も社会には大勢います。ご本人の自己申告くらいあてにならないものはない。
興味深いのは催眠においても同じです。「ぼ、僕は催眠によくかかる筈だ!」も「絶対にかからない!」もあてにはならない。あくまでその人の自己申告なんですから(笑)。
はっきり言えば「正常か?異常か?」などご本人にはわかりません。周囲が勝手に判断するものなのです。
その人の所属する「コミュニティ」にとって、その人の行動や存在、考え方や雰囲気があまりにも「異質」であって、馴染まないものならば受け入れられません。
ただの異質な考え方や雰囲気だけならいいですが、実害が出れば話は別です。実際にその人の行動でコミュニティに直接的に影響や被害が及ぶなら、それは「異常者」に分類されてしまいます。
パッと見、一種の「異常者」ともとれる行動をとる人は、社会に大勢いますよ。
女装癖のある人や、SMっぽいことにしか興味のない人、裸にならないと用を足せない人や、匂いを嗅ぐ癖が止められない人、同性にしか興味がもてない、暴力傾向が強くて他人を殴りたい人、車に乗れば人が変わったようにアクセルをふかす人や、人形(フィギュア)ばかり集めている人、恋人や奥さんがいるにも関わらずかたっぱしから浮気を繰り返す人もいます。
他人にみられていないと興奮しないというカップルとか、露出癖が強くてどこでも服を脱ぐ人、こういった人は珍しくもありません。相手に冷たくされたいために、妊娠して中絶することが好きなんて女性にもお会いしました。中には理解できないというか私には無理だとか、怖いと思う人も含まれますよ。
でも、その多くは「異常者」とは呼ばれません。
社会とかコミュニティの懐(ふところ)は意外に深いんです。どんな極端な行為や行動も双方が同意の上であったり、他人に多大な迷惑をかけない場合にはあまり深く干渉しません。その多くは許されるんですよ。
特に日本ではその傾向が強い。パーソナルスペースのコーナーでも触れましたが他人と距離を起きたがる傾向があって、相手を許しを得ないと入ってこない。それは同時に他人の趣味とか嗜好に必要以上に干渉しないことを意味します。
ただし、比較的緩やかで踏み込んでこない日本人の社会においても、絶対に許されないケースもあります。
その人の行動や行為、存在が、多くの人を傷つける場合、その「コミュニティ」全体にとって迷惑であり有害な場合です。
そうした行為を行う人の場合、その人本人が「私は正常だ」とどんなに言い張った所で認められません。
異常か、正常であるかを分けるのは「その人本人」でも、裁判所や医者が提出した鑑定書でもありません。実際には社会に迷惑をかける行為そのものが、その人と社会とを隔てる(へだてる)壁となるのです。
双方が暮らす「コミュニティ」において、多大な迷惑をかけたり苦労をかける、まして誰かを殺したり、身勝手な理由から傷つけていい筈がありません。その行動を行った時点でその人は異常者と呼ばれます。どんなに言い繕ったり誤魔化してもそれは決して社会では受け付けられないのです。
そういった連中が後になって自分(達)の権利を主張することなどおかしいのですよ。守るべき義務、社会の一員としての自覚が最初から欠落しているのですから。
自らの人権を主張するならば周囲の人達、特に社会的な弱者の人権を守らなければならない。子供たちや乳幼児、社会的な弱者を傷つけたり虐待する、殺すのは許されないのです。アメリカの刑務所においても、そういった犯罪を繰り返したものが最下層に置かれることは先に述べましたよね?
そこを認めてしまえば社会が崩壊するから。マフィアの一員であっても父親だったりもします。自分が収監されている最中に家族、家に残してきた奥さんや幼い子供が強姦されたり殺されたらと思うから、そういった激しい対応にもなるのでしょう。
赤ん坊や乳幼児、障害者や高齢者、妊婦や子供、女性を無差別に傷つけたり殺したものが、罪に問われた時だけ自らの人権を主張するのがおかしいと思います。
恐怖の構造
恐怖とは、自らを守るための一種の安全弁でありセンサーです。
恐怖心というセンサーが働かずに警戒音が鳴らなくなれば故障です。異質な者とか異なる雰囲気の者を警戒するのは動物としての本能。それがなければならない。家族や職場や生活環境を守るための感覚であり、その恐怖とか警戒心こそがコミュニティを守るための楯(たて)と矛(ほこ)です。
それが無くなれば生き残ってゆけませんよ。
最近はインターネットとか携帯電話の出会い系サイトで知り合って、殺されたりトラブルに遭うケースも増えています。これは恐怖、すなわち一種の安全弁でありセンサーである筈の感情、自分を守り他者から遠ざける筈の感受性や理解力、生物として備わっている警戒心が乏しい人が増えたことを指します。
恐怖とは、未知の者に対する自然な感情なのです。
会って話をした訳でもないのに、掲示板とか携帯電話で何度かやり取りしただけで相手のことを全てわかったようなつもりになる人が増えている。やはりそれはおかしいですよ。相手を見てもいないのに・・・・。
相手の何も知らないのです。どんな嘘でもつける。警戒心や恐怖心が薄れてしまい報道で何度危険性や事件が何度流されても、自分だけは「ああいったトラブルにはならないだろう」と漠然と捉える人が増えています。
そういった人にこちらから心配して懸命に警告を行っても無駄になってしまいます。ご本人は途中から過った空想の世界に行っているのです。自分にとって素晴らしいことばかりが起こって何の危険もないかのように錯覚してしまう。そのトラブルが毎日のように報道され、実際に起こっているのに「自分自身とは関係ない」ようにも思いがちです。
それはあり得ない。バーチャルやネットの世界であっても相手は人間ですよ。お互いが人間である以上、会ってみないとわかりませんし、実社会のルールとか取り決めはネットの世界でも同じことなんです。
恐怖とは、一種の想像力なんですよ。
想像力があれば自分や家族にも当て嵌めます。警戒もしますし注意もします。もし「自分や自分の家族がそのような被害に遭ったらどうしよう・・・」と想像するからです。少なくとも多少の用意とか防止策はとるでしょう。何の警戒心も持たず、家族や友人にも行く先を告げず初対面で会う相手とどこかに行けば、殺されたってわかりませんよ。
誰も気付いてくれませんから。何らかのトラブルに見舞われる可能性は高まります。以前から私が催眠の依頼をするとか、どこかのサイトで面談を受けたり相談する時に「必ず記録を残すように」と口を酸っぱくして言ってる理由です。
そういった想像力が欠如(欠けている)している人には、こちらからいくら真摯に話しかけても時間の無駄です。
理解できませんから。自分の気にいらないことは聞こうとしません。恐怖が存在しないというより自分に都合の悪いことは認めたくないんでしょうね。
トラとかライオンが隣にいる、と気が付かない人もいます。無闇に草むらに手を突っ込むと「毒蛇に噛まれる」との想像力とか危機意識が働かない人も存在します。
「そこには毒蛇がいるかもしれませんよ」と警告してくれたり、注意してくれた人のほうを怨んだり悪く言ったり、中傷する人もいます。事故に遭わない、トラブルに見舞われないとか「毒蛇に噛まれない」人もいますから、そちらばかり眺めて警告や注意をする側をうっとおしがったり、悪く言いがちなんですよ。
下手をすれば自分自身がそういった事件に巻き込まれ、大けがをするまでわかりません。実際に何らかのトラブルに巻き込まれ、嫌な思いをしたり事件に遭っても「あれはたまたま運が悪かっただけだ」「次は大丈夫!」と考えて、何度も似通った行動を繰り返す人もいます。
残念ながら、私は過去にそういった人にも何人もお会いしています。
時折、暴走します
恐怖とは一種の想像力です。自分を守る、「安全弁」のようなものだと書きましたね?
その安全弁は、時折、暴走します。集団ヒステリーともいいますが、コミュニティはある種の特殊な状況下においては容易に錯覚を起こすようになります。
「アイツは危険な奴に違いない!」
「昼間っからウチにいるのは、仕事もしてないし、きっと悪いことをやってるに違いない!」
その多くには根拠がありません(笑)。誰かの勝手な思いつきであったり、思い込みであったりもします。ただ問題なのは、その「ただの思いつき」とか「噂」が、何らかの拍子にそのまま集団に移行した場合、「これは間違いないことなんだ!」と本気で捉える人が出てくることですね。
実社会のみならずネットとか掲示板でも時折あるようですが、落ち着いて事実を確認しましょう。
ハンセン氏病患者に対する憶測や噂、隔離政策などもその典型です。集団でヒステリーのような状態になると「うつるんじゃないか?」「遺伝するんじゃないか?」と、噂と怖さばかりが先にたってしまい、埓(ラチ)が開きません。場合によっては正確な情報もないままに、そのまま何年も放置されます。
そういった例は夜ごとインターネットの掲示板で繰り広げられるアイドルの怪しい噂から、近所のおばさんの井戸端会議に到るまで様々です。数人であればそのうち沈静化しますが、過って多くの人達がそう思い込んでしまうと暴走して止まらなくなります。
困るのは結果として他人にいわれのない差別を広げたり、悪質な中傷を半ば本気で行ったり、あらぬ疑いやただの噂から誰かを疑って迷惑をかける人が実際にいる点ですね。
私の元にも2000年問題のおりに、私に「ミサイルが降ってくる前に催眠術を覚えなければ」など送り付けてきた男もいます。まあ、これは私のもっとも嫌っているカルト集団や宗教関係者、もしくは何かに脅え、自分の感覚や歪みからマイナスの思考に陥る異常者に近いでしょうが.........。
※と自身のホームページに書きましたら、当のご本人から「俺の事か!謝れ!」と中傷メールが届きました(笑)。保管してあります。その後、お元気ですか?
通常、他人にそういった感覚を押し付けてくる人は少ないのです。
だいたいの人は心のどこかで何かを思っていても表には出さない。「終末が来るかもしれない!」はオーバーだとしても日本がいつ戦争になるかもしれないとか、大きな地震があるかもしれない、くらいには思って備えている人は大勢いますよ(笑)。
私もその一人です。何かがあるかもと思ったり、何かの不安を感じているのなら黙って備えれば良い話でしょう。
終末思想にかぶれる人の弱さは他人を巻き込もうとするところです。誰かを善意から救おうとしているのではなく、自分一人では不安に耐えきれないので誰かに話したりメールを送ったりする。迷惑だと思うのは、それを否定されたり相手に同意されないと罵ったり悪く言い始める底の浅い人が多いことですね。
自分で本当にそう思うならお金を貯めるなり食料を備蓄するなり田舎で暮らすなり、不測の事態に備える方法はたくさんあるでしょう。正直私には「終末が来るから催眠術」って発想はよくわからない。確かに催眠が戦後の動乱期、物資の無かった時代に伸びたのは事実ですが、だからといって食料や衣料品がゼロで済むわけではないでしょう。
飢え死にしますよ。
目的は何であれテキストを買った人が「催眠を教わりたい」と言ってくれば指導は行ったでしょう。ただし、その前に向うから「世界が終わるから催眠術を」と言われれば、普通にドン引きしますよ(笑)。
自分の意見を他人に押し付けたり一方的な内容のメールを送り付けるなら迷惑行為にも感じられるでしょう。信じる人同士が何を言おうと行おうと自由ですが、信じない人に押し付けたり理解や同意を求めるのはルール違反です。
1999年末にはそういった噂、終末思想もたくさんありましたね。カルトにかぶれた連中から執拗なメールも何通も届いていました。今はもう2008年(原稿を修正している時点)になりましたが、世界はまだ滅んでいません。
警戒心が無くてたった数回メールのやりとりをしたり、プロフィールを交換しただけで相手に一人きりで会いに行ってしまう人も問題ですが、反対にむやみやたらに何かを怖がり、「ミサイルが振ってくる!」と安易に何かを信じて暴走したり、確たる証拠も理由もないままに誰かを責めたり、ラウンドスピーカーみたいに不安感を振り撒く人にも困りますね。
それは恐怖心の暴走です。
大人ならいいですが、幼い子供とか巻き込まれる弱者はどうなるのでしょう?親が終末思想を信じて小中学校にも通わせないカルト宗教は結構な数がありますよ。改善命令や排除命令を受けたり、民生委員が何度も自宅に通って「子供を学校に通わせるように」促している実例もあるのです。
ある種の傾向を持つ人が集団になった場合、一定の条件さえ整えば人間の心理は簡単に暴走します。結果として多くの人に迷惑をかけるケースもあります。
怖さの暴走は情報の鵜呑みから起こる
恐怖心の暴走が起こる背景には、情報に対する無知があります。その情報の出所を洗おうとせず、その矛盾に気がつかない。自分達に都合のいいように内容を曲解します。
すると相手の言い分や人柄、本来の姿には気がつかぬまま、一方的に責めるようになります。歪んでいるのは自分の視野とか視覚や意識であって相手の姿ではない場合もあります。
困るのは新聞記事とかマスコミ報道が「全て正しい」とは限らない点ですね。古い文献とか昔の記事を丹念に調べてみると矛盾点が幾つもみつかることもある。私も残念ながら過去には何度かひっかかったことがある。最近は出所とか中身を疑うようになって古本屋や国会図書館などで洗い直すようになりました。
そういった扇動を行う者は常に耳当りの良い言葉を用います。日本人の良識とか良心に訴えかける手法を用いるので、それを聞いてしまうとどうしてもそっちに偏るようになる。純粋な若い世代ほど引っ掛かりやすいですね。誰かが困ってるとか助けを求めていると言われると無意識にそちらに肩入れしたくもなるのです。
結局は、自分の持つ先入観や相手(国家や社会も含む)に対する不信感が情報を歪ませることになります。
怖さの暴走はね、やはり無知からくるんですよ。鏡に映った自分を見るのと同じです。鏡の向こうにいる自分の姿に脅え、場合によっては相手を殺そうとまでします。ネットでも起こりがちです。相手を良く知らないとか会ったことのない時に、そういった恐怖心は増大しやすい。
実際にあってみればたいした人間でもないのに過大評価してしまったり、反対によく知りもしないのに悪く思ったり矮小化してしまうケースもままあります。
一方的な情報に躍らされる前に、できるだけ各自で内容を確認しましょう。
これは著書にも書きましたが、私は関西(三宮)で阪神淡路大震災に遭っています。
パニック時ですから様々な噂もありました。売り場でスプリンクラーが働いて地下が水浸しで水没しただの、どこそこの地域で強盗団が動いているだの、余震が「何時何分にある」と公衆電話でに大声で家族に話しているおばちゃんもみました。それぞれに変な説得力があって、まことしやかな噂が多くて信じそうになったものもあります。
パニック時はやはり、恐怖心が高まります。その思いから暴走しそうになります。
不安になっている所にそういった「噂」をふりまかれたらたまりませんよ(笑)。そっちに傾きそうになります。ましてあの時は行政の対応が悪く「どっちの方向に逃げろ」との指示すら無かった。現場はやはり混乱していました。今になってあの頃を振り返ると多少は盗み等もあったのではないか?と思います。
ビルの残骸に押しつぶされて死んだ者の中には身元不明者が結構いました。ただしその殆どが部外者で外からやってきた者です。昔は火事場泥棒はもっとも卑怯なものとして死罪になったらしいですが・・・・。浅ましい人もいるものですね。
神戸港の港にLouis Vuittonなどのブランドバックが多数浮かんだことがありましたが、デパートの売り場から盗まれたものでしょう。それを盗んだ連中が港に隠して沈めていたんです。それが何かのきっかけで袋が破れて浮かび上がり大騒ぎになったこともありました。百貨店では軒並みやられたそうです。パールとかダイヤもなかった。現場の方に後で伺いました。
外国人や移住者に対し、関東大震災と同じような噂をふりまく人もいました。神戸は元々、外国人の多い街です。双方で助け合いも行われていましたよ。水を配り合ったり地下水とか洗濯用の場所を教えてもらったり、教会で焚き出しも行われていました。
韓国人も朝鮮系の人も中華系やチリ人もイスラム系の人々もいましたが、元々がコミュニティとして機能して繋がっていましたのでトラブルは殆ど見ませんでした。食料の取り合いで殴り合いとかも無かった。
むしろあの酷い惨状の中、現場の人達が見事に連携がとれてて情報網もあり助け合いもあった。日本って凄いなと思いました。海外ならもっと悲惨になっていたかもしれません。
今ごろになって匿名の掲示板とか、一部の自称人権派団体とかが阪神淡路大震災の時にレイプが頻発していたなどの嘘をばらまくことがありますがそれは明らかな嘘です。
あの時はね大きな地震が1回だけあったのではない。その後もグラグラ揺れてた。その余震で夜中にビルが次々倒壊した。夜になるとドーン!ってビルの倒れる音が聞こえる。地震の直後二三日は震度4から5前後、3くらいの余震が頻繁にあったんです。30分に一回くらい。その恐怖は凄まじいものですよ。夜電気を消して寝ている最中に大きな余震があって、一緒に寝ていた会社の仲間が「もう嫌や、嫌すぎる」と半泣きになったのも覚えています。
命の危険が高まると人は人のいる場所に集まります。一人きりにはなりたがりません。いつ余震で潰されるかもわからないから。震災は1月だったのでとても寒かった。自然に人々は火のある場所や暖房のある場所に集まります。大勢が一緒に避難しているテントの中でおかしなことはできませんよ。
政治活動とか反日活動のための組織なのでしょうか?10年も経ってからそういった嘘を煽る連中もいます。友人も神戸で被災している。家族も避難していましたし仲間や同級生も大勢います。はっきり言いますが当時、そんな話は聞かなかった。
状況を整理し、冷静に考えればおのずと答えは出ます。
彼等は「何人」なのか?
反対に良いことはたくさんありましたよ?フーケって神戸が地元のケーキ屋さんは困っている時だからと椅子とテーブルを出して誰でも座れるようにしてコーヒーを無料で配っていました。近所の教会はずっと炊き出しを行ってた。その教会も被害を受けてチャベルも住むところも倒壊していたのに、私財を投げ打って食べ物の提供を行っていました。
他には独断で小銭を袋に入れて配った銀行がありました。しばらくして「助かったよ」といって返却されたお金が、貸し出した金額よりもかなり多かったとも聞いています。日本人の凄さですね。
大惨事であったからこそ地元に密着した企業とか商店は軒並み協力していました。一部には不心得者もいたようですが、全体としての犯罪の発生比率は非常に低かったと思います。
(これも、もうずいぶんと昔の話になりましたが)東京都の都知事が自衛隊の謁見式の際、「今度大きな地震が起こったら、三国人が攻めてくるかもしれないから、皆さんにはしっかりしてもらわないと」と言ったことがありました。
当時、ずいぶんと物議を醸しました。その発言については私はあまり快く思っていません。それにあまりに腹が立ったので、2002年当時に話の流れとしてここに文章を追加したと思います。
この発言は流石に行き過ぎで誤りだと今も思っています。
確かに最近の韓国とか中国の高圧的な対応、WBC(2006年)やワールドカップ(アジア予選)の時の観客の反応や反日デモをみれば私だってむかつく。あまりに民意が低いとは思いますよ。なんちゅう国や、と思ったことも多々あります。
2008年には北京オリンピックが予定されていますが、チベット問題も含めてあまりにも高圧的で民衆に圧力をかけたり弾圧している雰囲気がある。中国で仕入れやってる人との付き合いもありますから色々聞いています。ですから、中国や韓国の主張をそのまま受け入れることは私にもできません。
ただし、だからといって日本の要職にあって政治家として都知事まで上り詰めた人間が古い差別用語を使うのには感心しません。三国人というのは間違いなく差別用語でしょう。それをこの国の政治家、しかも、民意によって選ばれた筈の政治家で人気の高い都知事が使っていたら「民意が低い」と彼ら(サッカーの試合で暴れる中国人観客)を笑えなくなってしまう。
政治家であるならば公的な場所で言うべき言葉ではないでしょう。今になってアメリカ人の政治家が日本人を「ジャップ!(Jap)」と罵るようなものです。(戦争中は使えた言葉でも)今は絶対に使ってはいけない言葉がある。
アメリカにも少し前までは「ジャップ・ストリート」と名付けられた通りがありました。それも日系人の抗議によって取り外されています。今の時代にアメリカの大統領とか州知事レベルの人がそう発言すれば、確実に問題視されると思います。
未だに「三国人」などと言って勝手に蔑む(さげすむ)人もいますが、世代はすでに2世、3世になっています。この国で生まれこの国で育ちこの国の言葉を話しこの国で生活しています。彼らは海外に住んでいる訳でもない。
台湾系の人々は?ブラジル系移民の人達は?日本人と結婚してこの国で子育てをやってる人達は?イスラム圏からきた人々もいます。一口に中華系とか在日といったって様々な人達がいますよ。全てが毎日、反日活動とか反社会活動に精を出していたり、密輸とか覚せい剤の売買に携わっているのではない。帰化したり真面目に暮らす人達も大勢いると思います。
この国で育ち、この国で生活する人々の全てが罪だと?
それだと日系人をジャップと罵った戦争中、戦後直後のアメリカ人と変わらなくなってしまう。
日本国内で破壊活動とか工作活動に精を出す人間は確かに「日本人」ではないかもしれないですよ。嫌う人や蔑む人達が出るのも当たり前かもしれない。コミュニティに異物とかトラブルを持ち込む迷惑な者ですから。
そういった連中を私は庇う意思を持ちません。彼らが忠誠を誓うのは彼らの祖国でしょう。そういう人達は厳密にいえば日本人ではなく他国民かもしれません。自国に大量の麻薬を持ち込んできたり、売春や強盗、窃盗やスリのために密入国で入り込んでくる連中を歓迎する国はありません。それはどんな国でも同じ。
ただし、この国で勤勉に仕事に勤しみ、日本国内に友人や知人を得て真面目にやっている人達ならば一方的に蔑む必要などないと思います。
アメリカやブラジルに渡った人が現地で子供を生んだ時、その子供には国籍が与えられます。彼等の存在は現地で「日系アメリカ人」「日系ブラジル人」と呼ばれます。コミュニティに一員として迎え入れられ、その国の国籍をもらうのです。
日本で生まれ、育ち、働く彼等は韓国系日本人、朝鮮系日本人、台湾系日本人、ブラジル系日本人ではないのでしょうか?
少なくとも私は阪神淡路大震災当時に助け合いをやった人や、これまで親切にしてくれた人々を「三国人」などといった僭称(せんしょう、相手を蔑む言葉)では呼びたくありません。
※意味を取り違える人が時折いるようですが、ここでいう「日本人」とは、彼等に「日本人になれ!」と強要するものではありません。自分の意思でこの国の国民となる人達です。
私の大切な仲間であり友人であり、家族です。
国籍だけで全部が決まるならびっくり
どんな事情、背景があるにせよ、その国に生まれた子供にはその国で暮らす権利と国籍を保証され、ただ「その国にいる」だけで一方的な差別や蔑み(さげすみ)や、政治家から蔑称(べっしょう、嫌っている言葉で表現されること)を受ける由縁(ゆえん)はない、と思っています。
この点は誰になんと言われようと曲げようと思っていません。私の一生のポリシーです。
国籍や肌の色は関係なく、その国に貢献したり移民先を愛するなら彼らにも生活する権利、特にその国で生まれた人達には「選択する自由」が与えられるべきだ、が私の主張です。アメリカでは22歳になった時点で本人の意思に委ねられます。祖国の国籍を選ぶかアメリカ市民になるかが選択できるのです。
同じ形式が日本でも中国や韓国でも、イギリスやフランス、イタリアや中南米、世界の国の多くで採用されることを望みます。
私には数多くの友人がいます。
韓国人だからも中国人だからもない。アメリカ人だからもイギリス人だからもない。どこの生まれだろうと、いいヤツはいいヤツで嫌なヤツは嫌なヤツ、悪いヤツは悪いヤツですよ(笑)。
どの国にも犯罪者はいる。と同時に善人とか凄い人もいます。うっとおしい奴もいれば一緒に仕事したい奴もいます。日本人にも嫌な奴は大勢いますよ。国籍で全てが決まる筈がない。
以前にフィリピン系、中南米系とか台湾系の人達とも仕事しましたが、私は嫌じゃなかった。話がしやすかったし奇妙に馴染みました。
私に言わせれば血液型占いみたいなもんですね。A、B、O、AB型の4種類で人類は括れますか?そのたった4種類だけ?アメリカ人なら良い人で中国人なら悪い人?韓国人には良い人がいませんか?「日本人は全て悪い奴だ!」と言い張る中国人がいたら、やっぱり頭悪いと思ってしまうでしょうね。
まあ確かに皮肉な巡り合わせで同じ国の同じタイプの奴、同じ嫌な感じの人達に何度も遭遇したことも無いとは言いませんが(笑)。確かに特定の国においては問題の多い連中もいます。組織犯罪とかに関わる連中はグループで動いていますからね。
それでも「韓国人や中国人は全部、嫌な奴!」で括ってしまうと視野が狭まると思うんですよ。
完全な報道規制が引かれてて情報が与えられない国ならともかく、自分で情報を得られるようになると考え方が変わります。どんな国の人にでも良い人とか価値観の近い人、趣味や話の合う人も現われるものですよ。
結局は「数」の問題です。知り合う人数でありきっかけの数。要するに恋愛と変わりません。
アニメなどが典型でしょう。日本のアニメファンはフランスやイギリスにも多い。不思議なことに反日で知られる韓国や中国にもいます。アメリカなどにも熱烈なファンがいて「オタク」で意味が通ったりもする。AKIHABARAと言えば翻訳無しで通じたりもしますし日本文化が国家とかイデオロギーとか主義思想を超えることもある。
そういった日本独特の文化に慣れ親しんでいる連中は、日本人の悪口をあまりいいませんよ(笑)。
食文化などもそうですよ。ロシアやフランス、中南米でも寿司ファンはいます。醤油ソースも全世界に浸透。日本酒はアメリカやオーストラリアでも売られています。一部の国ではワインのシェアを食うほどに人気があります。
結局は国とか人種が全てを決めるのではなく、その人の育った環境とか受けた教育、周囲をとりまくものが多くを決めるのではないでしょうか?どこかの国で生まれただけで全てが最初から決まっていて変更できない、ってことになれば一生があっさり決まってしまう。それだとつまらないでしょ?
血液型みたいなものだ、と私が言ったのは気にすりゃきりがないし、気にいらないから変えようってのもなかなか難しいってことです。
癌の治療などで骨髄移植を受けると血液型が変わってしまうことがありますが、そうなると性格もガラッと変わるのでしょうかね?私はあり得ないと思うのですが・・・・。大切なのはやはり環境とかご本人の努力だと思います。
私はどんな人も、ご本人の努力で変えようのない部分、その人の生まれ(国籍)とか人種で差別するのは辞めて欲しいと願っています。様々な事情がそれぞれにあります。仕事や生活でどこかの国に携わり、その国で生まれる人も大勢いるのですから。
私としては仲のいい友人やその人の家族、私が大切に思う誰かが、愚かな人に心無い言葉で差別を加えられているのを見れば無性に腹が立ちます。
生まれてくる子供に罪はないと思う
自らのルーツに当たる国に、憧憬(あこがれ)や尊敬を持つのは当たり前かもしれないですね。祖先の国であり、祖父母、父母の国なのですから・・・・。
私でも海外に移住すればそう思うでしょう。堂々と「私は日本で生まれました」と名乗ると思いますよ。ただし、同時にそれを名乗った時点でその国で犯罪行為とか反社会的な活動を行うことも無いでしょう。祖国の恥ですから。
「私は日本で生まれました」という者が現地でろくでもない行為をしていたら、日本人全員がそのような人だと思われてしまう。
それでは現地で友達も仲間も出来ません。祖国を思えばこそきちんと暮らさなければならない。海外に移民した日系人が各地で尊敬を集めるのは、苦しい生活の中で組織犯罪とかに手を染めなかったから。
あまり知られていませんが、日本人の移民は世界に散っています。ロシアやイタリア、フランスやドイツにもいます。ブータンやミャンマーにも中南米にもいる。日本に大豆を輸出しているブラジルの農家は殆どが日系移民です。柔術や空手を広めた人達もいますし、現地で苦労の末に開墾を行い農業のパイオニアとして尊敬を集める方々がいます。
同じ意味で、日本でも真面目に暮らす人達は仲間とか同胞とか日本人として受け入れてもいいと思いますよ。できればそういった人達も日本で尊敬される人になってください。海外で受け入れられた日系移民の方々と同じように・・・・。
そうすれば偏見や差別も自然に減ります。
日本人の懐は意外に深いから(笑)。学歴も職歴もない外人が語学教師やってたり黒人がモテたりするのも日本だけでしょう。海外からやってきたアメリカ人とオーストラリア人が驚くと当時に非常に喜んでいました。祖国ではモテないのに日本ではモテるし優しくしてもらえる。居心地がいいから帰りたくないと言ってる奴もいました。
この国で生まれたなら、日本に馴染んで日本人として暮らしてもいいと思う。
それを名称で現わしたりしたり表現するとすれば韓国系、台湾系、またはブラジル系かも知れませんが皆、日本人でしょう。海外で日系と呼ばれる人達と扱いは同じになる筈です。
少なくとも現在の東京の下町とか大手企業の下請け工場、飲食店の多くは多くの外国人労働者に支えられています。愛知県などもそうでしょう。社会はすでに複合化しています。よほど田舎とか地方都市ならともかく、少なくとも大都市ならば大変です。今、彼らを抜けば経済はガタガタになりますよ。
そういった人達の労働力にもっとも恩恵を受けている東京都に住み、税金を集めて運営を行い、重責を担う筈の都知事がこの国際化の時代になぜ「三国人」などといった言葉で話せるのでしょう?流石にそれはおかしいと思う。それならばこれまでに放置されてきた彼等の権利を保証したり、法律を整えるほうが先ではないのでしょうか?
彼等(日本で働く外国人、在日と呼ばれる人達)は、私達のコミュニティの一員ではないんですか? 彼等の作った品物や労働力、支払うお金(消費税などの税金)を当てにしながら、一方的に僭称(相手を蔑んだ名称で呼ぶこと)を与えるのはおかしいと思っています。
不法就労とか海外から次々にやってくる犯罪組織なら話は違います。厳しく取り締まるのが当たり前です。なぜならばそういった連中を野放しにすることは、結果として「外国人コミュニティ」の崩壊を招きますから。
ブラジルやアメリカ、イタリアに散った日系移民の方々は自分のお子さんや子孫が犯罪に手を染めないように徹底して厳しく接したそうです。そういった組織に関わった者は縁を切ったり、時には親の手で告発したり処分することすらあった。そういった厳しさがあったから、現地で受け入れられ長い時間をかけて尊敬を集めるようになったのです。
部外者である自分達がコミュニティ、その国で受け入れられるためにそういった手法をとられたそうです。
この国で住まいながら反日活動や犯罪に加担する人達は別であり間違いだと思っています。この国やこの国の文化や人々を愛していないならいる必要はない。そこまでこの国が嫌いなら無理に住む必要はないでしょう。それならば最初から祖国に帰って幸せに暮らしたほうがお互いのためなのです。
この国に生まれこの国で育った子供たちに罪はないでしょう。過去には政府のいいかげんな対応、動乱から国に帰れなかった人もいます。反日活動とか犯罪者組織に属することのない人ならやはりきちんと保護すべきです。いわれのない差別から、この国で生まれ育った彼等の権利や人権、働く場所が狭まるのならそれはこの国の民衆、政治家の怠慢です。
自国で生まれた「国民」に、国籍や参政権すら与えられない国など、先進国じゃありませんよ。子供に罪はない。自由の国、といいながら明確な差別やコミュニティの線引きがあるアメリカですら生まれた子供にグリーンカードは無条件に与えます。
1世とか不法入国者は、逮捕されて追い出されることもままあるんですけどね。定職を持ち、親である1世や2世の面倒をその子供とか孫たちがみて、犯罪者組織に所属しないなら大目にみてもらえることもアメリカでは現実にあります。
コミュニティを脅かす者
ウチのホームページには政治家も時折、観に来ます。旧の社会党の震災のおりの元首相、村山富市氏のいいかげんな対応を責める内容を載せた所、「貴殿の所は素晴らしい内容のホームページだが社民党の部分だけ相応しくないので外せ」と懇切丁寧なメールを送り付けられたこともあります。
むかついたので余計にそういった記述が増えてしまいましたが(笑)。削除はしません。
旧新進党も衆議院会館のログも驚くくらいにたくさんあった(笑)。日本に住まう在日の人に「投票権、参政権を与えろ」とネットに書いたのもおそらく私が最初でしょう。
ただし、私の言葉はこの国で「ともに歩む」意思を持っていて犯罪や反日活動を行わない人達を指したのであって、帰化もしないし国籍や戸籍も移さない、納税もしないとか反日活動に積極的に関わる人に無条件で「参政権とか年金を与えろ」と書いた覚えはありませんよ。そんな国は世界中探したってありません。
アメリカでは市民権を得る時に宣誓書にサインします。外国人(移民者)には提出が義務付けられています。
その中に「アメリカ市民として国家を尊重して反米活動を行わない」との文言はあります。「アメリカの憲法に従う」「法律を守る」ことに同意することが条件です。その条件に違反したり無視すれば資格を失います。
その国の国民になってその国に奉仕して一緒に頑張る、という意思を示すからからコミュニティに受けいられるのです。誰かのテリトリーとか国に勝手に入って、その中で「独立国家を作ろう!」だとか自分達で好き勝手にしようって人達はどこの国やコミュニティでも敬遠されますし排斥は受けますよ。
真面目に働いてコミュニティの一員としての義務を果たすものには権利も与えられるべきだと私は思っています。「この国の民衆、政治家の怠慢だ」と書いたのはそういった意味です。なのになぜか最近、民主党とか小沢一郎氏の発言を聞いているとおかしな方向に話がズレているようです。
そもそもの「外国人参政権」とは元々そういった意味合いのものではなかった。色々な人間が寄ってたかって内容を変えてしまったようですね。
ウチのサイトにもそれに関する記述がいくつかありました。以前に新進党とかのログを散々見た後なので、そういった文章が政策に影響でも与えたのか?と思ってびっくりしたこともありました。
もし、政治家の方で、このコーナーを見た方がいたら、私の言葉の意味をよく考えて下さい。
コミュニティを脅かすものは、障害者ではありません。外国人だからでも肌の色が違うからでもない。私達の生活、つまり「コミュニティを脅かす」のは一種の異常者です。
異常者とは、精神障害者を指すのではありません。まして、「三国人」などでもない。
異常者とは思いやりを持たぬ者です。相手を利用しようとする者です。自分の都合で他人を殴ったり、傷つけたり、相手の大切に思うものや家族、生活を踏みにじって平気な者です。
差別を繰り返し相手を蔑む者です。家族や友人、隣人や仲間を傷つけて顧みない(かえりみない)者です。懸命に生活する「誰か」を、自分の都合で振り回したり、身勝手に傷つける者が異常者なのです。
確かにある意味では精神に障害を持つ者も、一般人や外国人、未成年者もその範疇(はんちゅう、グループ内)に入るでしょう。彼らも何かのきっかけで「異常者」と呼ばれるような犯行、凶行に及ぶのかも知れません。
ですが、それはただの可能性に過ぎません。言い換えればどこかのコミュニティに住み、どこかで生活する限り、誰もが等しく加害者になる可能性があり、と同時に自分や家族が被害者になる可能性があります。
簡単に「精神に障害を持ったから」とか、「未成年者だから」「外国人、在日だから」などの薄っぺらい判断、外見や一部の条件や価値観で相手を差別したり危険だと考えて排除するべきではありません。
それではあまりに考えが無い。捉え方が浅くてお粗末だと思います。人間には何のために知恵が備わっているのですか?人間だけがコミュニティにおいて「精神障害者や精神薄弱者」いわゆる「気が違う人」まで保護しようとした素晴らしい文化を持っています。
なのになぜ、深く考えようとしませんか?
それらはあくまで相手を見た人の一方的な先入観、感じ方に過ぎず、実際にそうとは限らないのです。
皆さんも自分が気がつけば「異常者」すなわち、コミュニティ内で平気で多くを傷つける側にならないために、時折、自分自身や周囲を振り返りましょう。
自分ではまともだと思っていても周囲がそう受け取っていない場合にはそれは異常者なのです。
社会は一人では成り立ちません。どこかで生活しどこかで誰かと必ず交わりがある。一方通行ではなく相互の関係があります。あなたは誰かに許しを得て、また反対にあなたが誰かを許してお互いがその場、つまり「コミュニティ」に共存しているのです。
私はどんな仕事に携わろうと、相手がどんな肌の色でどんな国籍、どんな生活習慣や性癖や考え方を持とうと、その人が相手を傷つけず自分なりに精一杯に生きるなら認めたいと思います。
異質な者は怖いですよ。何度も繰り返しますが、それは私も同じことです。いきなり習慣や言葉、雰囲気の異なる人に会って話しかけられれば怖いです。肌の色とか服装とか国籍が違えば誰だって身構える。
でもだからといって全てを否定するつもりはありません。
異なる文化の人について何の情報もないままに決めつけることなどできないのです。
信じることは怖いです。でも、疑ってしまうことでもっと多くの「何か?」すなわち、出会いとか仕事、何かのきっかけやチャンス、自分が知識や経験を得る機会を、失ってしまうことのほうが、よほど、困ったことで怖いことだと思います。
コミュニティは育むもの
今回のこのコーナーはとても長くなりましたが、若い世代に向けてこのメッセージを贈ります。
コミュニティとは本来、守るものではありません。育む(はぐくむ)ものなんですよ。
ある一部の人間がどんなに自分達の古くからある慣習、価値観を守ろうとして強い差別や偏見を持とうと、どんなに周囲を脅かしてガッチガチに縛ろうとしても、いずれ変化は訪れます。歴史とはそういうものなんです。
数千年前の楔形文字にだって「今どきの若い者は」とか「我々の守ってきた文化が廃れてしまう」との嘆きの言葉があります。年寄りはいつも嘆き、「昔は良かった」とつぶやき、「我々の文化を守らなくては!」と考えるものなんですよ。
年寄りはいつか死にますからね(笑)。どんな権力者も死からは逃れられません。遠からずいなくなるんですよ。ブラックユーモアのようですがそれが現実です。
どんなに堅固な社会、どんなに強い結びつきを持った集団であれコミュニティであれ時間と共に変化します。いつまでも同じということはありません。時代背景や社会の変動、時間の経過と共に人々の意識も変わってくるのです。
ですから時には何かを受け入れることも必要です。新しい血も必要なんですよ。怖さのあまりに身構えてしまって、全てを否定し、新しい人達とか異質な文化を受け入れないならば新たな関係が育つ事はないでしょう。
歳寄りは別にいいんです。いずれ死にますから(笑)。頑固であることも役割の一つ。私も含め、私の世代には私の世代なりに守りたい世界とか慣習もある。私なりのこだわりもある。それでいいんです。その世代の人達がそれを守ろうとするのは当たり前ですし、それを次世代に引き継いで欲しいと願うのも普通なんです。
私が様々なものにこだわりや抵抗感を持つように私よりも上の世代もまた違った抵抗感や価値観を持つ。そのそれぞれがせめぎ合っている。それこそが社会です。価値観が統一される社会がおかしいのですし、価値観や意見が違うから「殺してしまえ!」とか弾圧してしまうのもおかしい。言い合ったり喧嘩しあっても「そこに共存」することこそが正しいのです。
なかなか変化が訪れない。老害が邪魔して道筋が見えない。横から見ていてイライラしたりむかついたり、機関銃があったら撃ち殺したいと思うかもしれない。それでも共存の道や話し合いの場所を失ってはならない。そのカオス(混迷)そのものが社会であり、人間であり、新しい何かが芽生えるきっけけであり土壌だからです。
長い時間がかかる。時には呆れるほどものわかりの悪い連中がいる。
それでも徐々に変化が訪れる。それが時代なんですよ。
この世の春を謳歌していたスパルタやアテネ、ローマも滅びています。素晴らしい文化を育て、民主国家として元老院や議会制、市民集会まで開催していた最強都市や国家も時代の潮流や変化に耐えきれず滅びます。日本で言えば「平家にあらずば人ではない」とまで言われた武家や貴族集団でもやはり変化には耐えきれなかった。
それはやはり、血が古くなって滞るからでしょうね(笑)。受け入れること、育むことを恐れて何かにしがみつき、傲り(おごり)からほころびが生じるから消滅してゆくのだと思います。
すでに何らかの価値観を手に入れ、それに執着するならば育む努力はしません。しがみついたほうが楽だから(笑)。自分の手にした地位や財産、それを守らんがためにどんな強引な行為も当たり前だと思い込み、押し付けるようになります。
そんなことはね、一部の頭でっかちの年寄りか政治家にでもさせておけばいいんです。
これからを目指す、若い世代には必要ありません。
実際には育てることが「守る」ことです。そのまま継続したり誰かを強制的に排除することでは守れません。複合化する現代社会、肥大化するコミュニティにおいて「コイツは排除!」みたいな明確な線引きは難しく昔のように簡単ではありません。
規制の厳しい中国ですらインターネットを通して情報は入り込んできます。日本のアニメを見た世代はどんなに中国政府が反日教育を施しても憧れをもってしまったりもする。世界の価値観は多様化しているんですよ。しかも急速に変化している。それぞれを隔てる垣根はどんどん低くなっています。
壊すのではなく排他的になるのではなく、相手を理解し、話合い、自ら関係を育む努力を。相手を「理解しよう」とすると同時に自分達から「情報を発信」する努力を。恐怖心の暴走はお互いの無知と情報交換の失敗、差別と偏見から起こります。情報の交換こそが相互理解の第一歩です。
何かを「育てよう」と思う心は無用な差別を遠ざけ、多様な文化や価値観、他者を受け入れ、苦しみの中からでも「新しい何か?」を育みます。
恐さの中から生まれる勇気
日本の古い法律(大宝律令)に障害者を受け入れ、支援する記述があったのは、当時の人達の勇気の証(あかし)でしょう。当時としては画期的なものです。やはり導入には紆余曲折(うよきょくせつ)迷いがあったでしょう。容易なことだったとは到底思えません。
誰かを支えるのも信じるのも勇気がいるんですよ。これまでと違う他者(他国や国籍、肌の色や考え方の違う人、障害を持つ人も含める)を、自分の生活圏に受け入れるにはとてつもない勇気が必要です。
怖さは誰でも持っています。異質な者、特異な者、自分が理解しがたい者とか異国人が怖いのは当たり前のことです。
いくらシャーマンとか呪術、占いとか神懸かりが一般的な時代だったとはいえ、それを保護しようとか罪を問わないようにしようとか社会で受け入れようというのは難しかったと思う。
排他的になり、過去の事例を引き合いに出して相手を遠ざけることは簡単です。
私も恐いんですよ。
私は多少は修羅場(しゅらば、危ない現場って意味)を潜ってきています。泥棒を捕まえたことも、包丁を振り回す相手を取り押さえたこともある。食えない時代には様々なアルバイトをやってました。それこそ水商売から肉体労働に至るまでありとあらゆることをやった。だからこそ、異質な者に対するコミュニティの反応もよく知っています。
その職場とか職種ごとで決まりごとみたいなものがある。不思議だなと思うのは水商売の人間がサラリーマンを見下したり、サラリーマンが肉体労働の者を見下したり、正社員が季節工や派遣社員を見下したり、その世界の「ルール」とやら常識を押し付けることも多々ありましたし見てきました。
お互いが人間です(笑)。少なくとも言葉くらいは通じる。相手の世界のこととか苦労とか悩み事は見ないし知らない。なのに見下したり悪口言ったりは出来る。それをみて「なんて心が狭いんだ」というより、なんでその程度のことにこだわったり、お山の大将ごっこやってるんだろう?と不思議に思ったりもしました。
知らないなら自分で飛び込んでみたり、試してみたりしたほうがいい。
私はそう考えて色々な仕事をしました。カバン一つしか持たずに友達も家族もいない場所に一人で行って住み込みとかアルバイトから始めて経験を積みました。中には悲しいこととか苦しいこととか、泣きたくなったこと、悔しくて夜も眠れなかったこともありました。
その上で言いますが様々な職種、多様な人々と話してみたほうが可能性が広がりますよ。少なくとも若いうちは色々やってみたほうがいい。でないと価値観が狭まったままで歳を重ねることになります。歳をとってから新しい挑戦なんて出来ません。誰かを受け入れるなどもできない。恥を掻くのは年齢の上昇と共にどんどんできなくなるから。
30歳過ぎたらむしろ過去の遺産というか経験を元に事業とか仕事を広げる人のほうが多い。過去の経験とか悔しい思いが人を育てるのであって、そのバックボーンというか背景が薄い人は薄っぺらな発言や仕事しかできないのです。そういった人が物まねとか盗用を重ねるようになるんですよ。
負けたくない気持ちの強かった私は、格闘技などもかなり長くやってました。
でもね、それでもまだ見ぬ相手とか異質な者、自分とは異なる「何か?」の雰囲気を持つ人は恐いです。入って行くのが怖い。ですから垣根を作ってしまうとか、俺様ルール、仲間内だけでまとまってしまったり異質なものを見下ろす気持ちも少しはわかる。
でも、そればかりになってしまえばとても小さな世界しか知らないままに一生を終えるでしょう。ほんの少ししか知らないままにあなたの若さとか可能性が失われることになる。それに恐怖は覚えませんか?私は嫌でした。
人間は幻想や妄想、何かのちょっとしたきっかけから「恐怖心」が暴走するとなかなか止まりません。私は様々な仕事に携わった末にこの仕事(催眠とか心理学)を選んだが故にそれをよく知っているのです。
相手を「知らないこと」が恐怖心や不信感を増大するんですよ。怖くても勇気をもって相手のテリトリーとか中にも近付かなければならない。近付かなければ正確な情報も得られないから。
近付かないままに悪口を言いあうようになれば、悲惨な事例も増えます。違う国籍や生まれ、肌の色とか障害のような身体的な特徴、異なる「コミュニティ」(マイノリティ、少数派、少数民族、と言い換えても構いません)の住人を、他の大勢が責めるような悲惨な出来事も起こります。相手が怖いからと言って窓口を閉じてしまえば和解の可能性はゼロになるのです。
私自身、これまでに何度も恐い目に遭っています。この仕事を始めてからも自宅におかしな連中がおしかけてきたり道で待ち伏せを受けたこともある。依頼と称してやってきた女が実はカルト宗教関係者だったり、執拗な勧誘を受けたりストーカーまがいの行為や脅迫を受けたこともあります。
でもね、だからといって全てを排除してしまえばチャンスはなくなる。また怖さを理由に排斥してしまえば相手からは憎しみしか生まれません。恐怖が更に差別や悲劇を生むのです。それはあまりに苦しいですし、悲しいですね。
できれば信じる勇気を。誰かを支え励ます勇気を。
私は本当の「強さ」とは優しさと勇気の中から生まれるものだと思っています。
犯罪を予防するために
相互の理解を深めお互いがお互いを知ることが、何よりの犯罪の防止に繋がります。
大阪の児童殺傷事件(宅間守死刑囚)などはとても不幸な出来事です。残念ながら、今後もそういった事件が再発しないとも限らないでしょう。不安に陥る親御さんも多いと思います。
あの事件を契機に精神障害者への誤解や錯覚も増えたのかも知れません。元々、このコーナーはそういった誤解を少しでも減らしたいと願って公開されたものです。
私は精神障害者が事件を起こすのではなく、社会とかコミュニティを怨んだり嫉むもの、つまり異常者がもっとも弱い部分とか子供を狙ってそのような酷い事件を引き起こしたと考えています。それを知って欲しいと願ってここまで長々と文章を綴りました。
私は以前から言っていますが、犯罪を抑止するのはお互いの繋がりだと思います。
お互いを「見張る」のではなく、気づかうことです。「責める」のではなく、思いやることです。その気持ちが育つならば、おかしな人が参入してきてもきっと周囲の誰かが気がついて忠告もできますし、地域や社会でその「コミュニティ」を荒らす異常者に対して対策も立てられるようになります。
昔の日本の社会においては向こう三軒両隣とも言いました。隣の子もその隣の子も知っている。我が子ではないが近隣住人の子供は自分の子と同じように注意したし叱った。
危ないと思えば庇いもするし助けようともしました。他人のお宅でご飯まで食べさせてもらってた子もいます。
叱ったり見張ることは目的ではなかったでしょう。お互いの子供を「気づかった」のです。昔は皆、貧乏暇なしで共働きとか子育てをしながら内職とか留守も多かった。ですから自然に互助会とか支援組織に似た形になりました。
基本は「お互いを見張りあう」のではなく、お互いが助け合ったりお互いの子供達を心配したからこそ、そんな形式になったんだと思われます。
おそらくですが、コミュニティを脅かすのは「外国人だから」でも「障害者だから」でもない。もちろん「未成年者だから」でもないでしょう。そういったレッテルを貼られた者が重大な事件を引き起こすのではなく、コミュニティを怨んだり他人の幸せを嫉んだり、何でも自分の好きなことをやるんだと思い込んでルールを無視する者が、大きな災厄を招くと思います。
自由の意味の履き違えですよ。自由とは「何でも好き勝手にやっていい」のではない。
社会にはそれぞれに決められたルールがある。そのルールの全てを無視したり、自分に都合のいい部分だけ抜粋するのは「自由」ではない。自分の自由とか権利を主張するために、誰かの権利とか立場、まして命を棄損(きそん、失わせる)するならば間違っています。それを受け入れてくれるコミュニティは世界中のどこにもない。
学校や会社もコミュニティです。家庭も地方自治体もコミュニティです。国家もそう。そういった枠組みを大切にせず、地域の縦横の繋がりやそこで生活する人々を愛さず、自分の都合だけを振りかざす連中がトラブルや被害を拡大するのだと思う。
犯罪を犯す者であっても必ず何かの枠組みに所属します。どこかに引っ掛かることになる。どこにも所属しない者はいないのです。
犯人自身が「どこかに所属する」のに自分だけは「ルールを無視していい」と思い込む者がいます。それが異常者であり、コミュニティを脅かす(おびやかす)者です。社会全体が戦わなければならない危険であり相手です。
犯罪を予防するために、私の考える主張は一つです。それぞれの結びつきを深めること。
大小さまざまなコミュニティがありますが、そのコミュニティの仲間や参加者同士で「情報を」交換したり共有すること。違うコミュニティとか枠組みでも情報を交換すること。そういったセンサーに引っ掛かった場合には警報を発して社会全体で子供を守るようにお互いが気づかうこと、です。
聞こえてくる情報を「他人事」だとは思わないように。それが大事です。周辺住民のや地域住人気持ちが団結していれば、やはり他人は割って入りにくいものなんですよ。どんな凄惨な事件にせよ必ず事前にその兆候はあります。その兆候を見誤らぬようにできる限り多くのコミュニティと繋がりを持ち、多くの関係を育てましょう。
コミュニティの住人同士の結びつきを深めて話し合い、お互いを色眼鏡でみないようにして関係を深めることです。その上で異質な者とか不思議な人が入ってきたら全員で注意深く観察するようになれば「悪意の兆候」は見えます。
近隣で似たような被害とか危ない事件がなかったかを調査したり相互に情報交換できる通信網やネットワークを育てるべきです。それが私の主張です。そこに毒蛇がいる、とわかれば防御もできる。少なくとも無闇矢鱈(むやみやたら)と危険な部分に手を突っ込む人を減らすことができる。
個人の力はたかが知れていますが、周囲の協力があれば猛毒を持つ蛇やトラ、ライオンでも防御できる可能性があるのです。退治できるかどうかは別として被害を最小限に止めたり、被害者を減らして救える可能性が高まります。
コミュニティとは、実際には国家や会社、何かのイデオロギーや枠組みではありません。
大切な「人」こそが、各自の繋がりです。家族であり友人であり、恋人、会社や学校も含めた仲間などが、人々が大切にしたい「コミュニティ」そのものです。
誰かを「大切にしたい」「家族や仲間を守りたい」と望む心、思い、そしてその相互の結びつき、それがそのまま多くの繋がりを育て大きなコミュニティとなります。
たくさんの心、人との繋がりを大切に・・・・。
その思いこそが、結果として多くを支え、たくさんの人を助けることになるのでしょうから。
1997年10月初稿
2002年5月1日改訂
2008年4月23日加筆修正
谷口信行



