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催眠に対する捉え方

2006/04/29改訂
1998/03/31初稿

基本的な概念は教育と同じ

※このコーナーが最初に書かれたのは1998年03月31日です。メールで「私の子供に催眠をかけて親の言う通りになるようにしてくれ」などと安易に言ってくる親に憤りを感じて書かれた文章です。

基礎講座にも書きましたが、催眠とは「なんでもできる簡単で便利な道具」ではありません。

基礎講座の巻末の「禁止暗示について」のコーナーでも書かれていますが、安易に自分の子供や友人、彼女に催眠をかければトラブルが何でも簡単に解決すると考えることは間違いです。

催眠で主に行えるのは原因の特定です。なぜ、そのようなトラブルにあなた(被験者)が囚われることになったのか、その原因や要因を探ることにあります。

その上でカウンセリングや方向修正、行動抑制を行いストレスを軽減し、本人が苦しい状況を抜け出す手助けをする必要があります。そこを曲解して強制的な暗示や催眠、相手の意思や環境、原因を無視した勝手な方向づけなど行うべきではありません。

私の場合、親御さんが勝手に「この子を催眠を使って、私の言う通りにして欲しい」などと言われても絶対に行いません。あまりに失礼ですし、子供の人格を無視していると思います。

「私に言う通りにすればいい」

「私の言った通りにすれば有名校に入れる」

「幸せになれる」

「失敗しない」

など、いったい誰が決めたのでしょう?社会常識や通念は刻一刻と変化します。幸せの意味とか安定なども一律ではない。たった数年前まで安定企業、安心出来る職種と言われていたものがあっという間に斜陽に傾くこともあります。いい大学や学校を出ても就職すらままならないこともリストラもある。

ただ従う事を強制されて育った子供は自主性や独創性を失い、突発事故やアクシデントに弱くなる。厳しい社会情勢、急速に変化する現代社会に対応しきれませんよ。

個性と自立が、その子供の将来を守る

「私にまかせとけばいい」といった指導や教育は本人の自立を妨げます。

「子供は親のいう通りにしておけばいい!!」とヒステリックに怒鳴る親を見るたびに私は「そうではないんだ」と考えます。

親は間違いなく子供よりは先に死にます。子供は親の所有物ではありません。間違った方向に子供が進もうと考える時「そちらは危ない!!」と教えるのは親の大切な勤めです。社会経験の少ない子供を心配したり親が何らかの道筋を見つけようとすることの全てが間違いだとは思っていません。

ですが、それでも子供本人が「自分で考える能力や判断力」はどうしても必要です。

危険を回避する能力と言っても良いでしょう。親や大人は「やってはならない」ことを教えると同時に「なぜ、それをやってはならないか?」という理由を教える義務を負うのです。

親や保護者を失ったら?寿命や順番を考えれば通常は親が先に死にます。

もしくは何らかの理由から自分で独立したり自立して生活しなければならない場合、子供は自分の意思で選択しなければなりません。「こうしておけばいい」といちいち全てを誰かに指導、指示して貰う訳にはいかないのです。

多くの悪意やトラブル、突発的なトラブルが待ち受ける社会において、誰かに妄信的に従うことの楽さと「考えることの無意味さ」を先に教えてしまうと、取り返しがつかなくなります。ただの社畜や奴隷と同じですよ。レールからはみ出す事もできませんし、はみ出した途端目標を見失ったり犯罪に走る例も多いのです。

通常、誰かに一方的に「こうしろ!!」と指定されてしまうことは苦痛を伴いますし、腹ただしいものです。それに疑問すら持たないようになればお終いです。そのような仕事や生き方しかできない人は徹底的に利用されます。独自の判断力とか独創性、広い意味では個性とか独自性は子供の頃に育まれるのです。

それを無視して「親の言いなりになれ!」は結果として弱い人間しか作りません。

社会情勢の変化

昔は「人が良い」ことは美徳とされましたが、残念ながら現在においては馬鹿と同義語です。

もちろん私はその現状が良いとは思っていませんよ。誰かのために何かをやるとかボランティアの精神は尊いものです。金銭目的とか営利目的だけで社会が成り立っているとも思っていませんし、社会には悪意と同じ数の善意もあります。善意を持って誰かを手伝う事、誰かに親切にすることは人間の美徳であり尊ぶべき事です。

ですが社会には多くの悪意もある。振込め詐偽を筆頭に誰かの善意とか優しさを悪用して金を振込めと迫ったり、まったく無関係の人に料金を請求したり何かを売りつける行為も横行しています。

現代社会において自分の意思を明確に持たず、他人に指示されないと「何もできない人間」は早々に駄目な人だとレッテルを張られ、適当に利用されます。その場合、どんな高学歴も何の意味も持ちません。

自分の意思や考えで「間違っている」ことは間違っている、「嫌な事は嫌」とはっきり言わなければなりません。誰かの指示に黙って従い、全てを諾々と行う人間には(現代社会において)成功や生活、仕事や安定は保証されていないのです。むしろ危険に近づく事になるでしょう。

何十年も会社の言いなりになって懸命に働いた方が、一方的なリストラに合う現実もあります。終身雇用制で一生会社が面倒をみてくれた時代とは違います。公務員ですら民営化されたケースが幾つもある。仕事の過程の中で何かの汚職や贈賄に関わり、仕事どころか社会的な信頼や家族を失うケースもあります。

その内容を眺めてみれば、会社や上司の指示に従い「自分で考えていなかった」「はっきりと拒否出来なかった」ことが結果であることも多いのです。

はみ出すことを恐れ、古い日本方式である「長い物には巻かれろ」では対応できない社会はそこまできています。一流企業に就職して仕事を無難にこなせばその会社が生涯を保証してくれるかどうかなんて、誰にもわかりません。

倒産してゆく企業もありますし、合併や統廃合もある。今後社会は益々、複雑化するでしょう。

勘違いしている人達は目を覚まして

どういった状況においても、生き残って行く人は「他の者にはない能力」を持つ者です。つまり「自分のい意思で何らかの事を考えて行動できる者」すなわちは自立した人格と個性を兼ね備え、自己を確立した人間です。

一般的に親が勘違いしていることですが、親が子供に「正解を教える」必要はないのです。

お母さんの言うことに従いなさい、お父さんの言う通りにすれば間違いないではなく、なぜ、お父さんやお母さんは「それが正しいと思うのか?」を理解させるために話すことがもっとも大切なのです。

子供の頃から親や教師の言いなりになるように指導してしまった子供に、個性や独創性は生まれません。平均点を取ることはできても、新しい発想は生まれないのです。

子供を将来の社会における多くの悪意や荒波から守ろうと思うならば、まず、親がやらないといけないのは、「何が正しいのか自分で考える方法」を一緒に考えることです。

子供に「なぜ、それが間違っているのか?」「なぜ、それが正しいと思うのか?」を親が一緒に考え、悩む必要があります。正解を教えるのではなく一緒に考えようとすることなのです。

解答を「自分で導き出そうとする姿勢」が結果として子供の自主性、自尊心、生活や精神(心)を守るのです。

勘違いしがちですが、親には「これが絶対に正しい」とか「言われた通りにすればいい」ということが求められているのではありません。それを繰り返してしまうと自分では考えなくなる。

過程を無視して解答だけを強引に教えると楽な方向に走ります。難しい事とか複雑なことは考えず、誰かの指示だけを待つ大人に成長します。親が生きているうちや保護者や善意の第三者がいるうちはいいですが、悪意を持って誰かに接せられるとひとたまりもありませんよ。

結果としてそれは、社会からドロップアウトすることになりかねません。

絶対的な「正解」を教えることではなく「これが正しいのではないか?」を子供と一緒に考えさせる必要があるのです。子供が自分で考えて「やりたい」と望んだことをうまくサポートすることが、親や教師、周囲が行える手助けであり、教育なのではないでしょうか?

広い意味で言えば催眠やカウンセリングなども入ると思います。

方向性や多様性を示すこと

逃げ場のない子供はカッとなりますし、身を守るために刺します。(一部、「刺される理由」に書きました。バタフライナイフで事件が起る以前にです)今の教育方法は間違っています。勝つことを中心、生き残ることを中心とした社会構造を強化すればこのような問題はさらに増えます。

※この文章の初稿は1998年です。バタフライナイフで少年が刺す事件が複数発生していました。

適材適所といいますか、それぞれが自分に合った職場や環境を目指す教育を行うべきだと思います。

また、「勝つ」ことを教える場合にそれに入れなかった場合も教える必要があります。一部上場企業に就職する人は社会全体の10パーセント程度に過ぎません。残りの90パーセントはその下請けや周辺、生活に必要な別の仕事に従事することになりますが、それを「負けた」と教えるのは新たな差別の火種になります。

1000万円以上の年収を取れる人は全国民の数パーセントに過ぎません。そこにたどり着く人は少数で、そこにたどり着くことばかりを「がんばれ!!」と子供達に教え続ければ、はみ出した人間はどうでもいい人間だ、といった感覚のみが色濃く残ります。

親も子供も勘違いしていますがその一員になるためにであればどのような手段も構わない、やっていいんだ、といった感覚に傾いてしまえば、社会はどういった形になるのでしょう?

そう教わって育った子供たちが、将来どのような未来を作ると思いますか? 

試験や何かの資格に通り、数パーセントの人間に入れば「われわれは選ばれた人間だ!!」と考えるようになります。選民思想に近い感覚が強化されて他人を見下すことに何の痛痒も感じないでしょうね。

そう考えて全ての人間を見下すような、一部の政治家や官僚やエリートと呼ばれる人達に生活を縛られることは、皆さんは恐くはないですか?

「エリートコース」なるものに乗った人間は相手を見下した感覚になりますし、「はみ出した」と感じたり、「落ちこぼれた」と受け取る人間の一部は新たな目標を見失い、周囲に迷惑をかけることを厭わなくなります。新たな混乱の火種となるでしょう。

実際には社会には自営業も販売業も職人もいば、学校の先生も公務員も下請けもある。縁の下の力持ちという諺もありますが、社会には多様な職種があって必要とされているのです。ミュージシャンも物書きも漫画家もアニメーターや映像屋も旅行社も必要だからそこにある。職業に貴賎などはない。

その部分を教えずに金とか実入りの部分だけ教えてしまえば取り返しがつかなくなる。先頭コースからちょっと外れただけで自分の今いる場所や、価値観を見失うことになるからです。

子供達が大人から教わらなかった物

人の価値観や役割、仕事とか目的は様々であることを教える必要があるでしょう。今、それを教えることが社会でもっとも望まれていることではないでしょうか?

未来は様々で目的も複数ある筈なのに、日本を取り巻く現在の社会情勢においてはあまりに一点に絞り過ぎです。「勝つ」こと、「はみ出さない」こと、そして負けることやはみ出すことを「恥だ!」と教わり、そうだと思い込ませる文化や社会は「お金さえ貰えればなんでもいい」といった感覚の子供達を次々に生み出す原因になると思います。

現在起っている「いじめ」の問題や、刃物を使った少年犯罪、路上生活者を襲撃する事件なども、そのような社会や教育の姿勢に一因はあります。

効率を求め、勝つことを中心に教育を受け、それを学ぶ意味やはみ出した場合の対処法を教わらなかった子供たちは「はみ出す」ことや「置いていかれる」ことに極端に恐怖や不安を覚えます。結果、「自分たちよりも落ちこぼれている者」や「はみ出している者」を追いかけ、いじめたり、仲間はずれにする対象にします。そうすることで、自分がはみ出すことから逃れられたと錯覚し安心するからです。

この状況は、会社におけるリストラなどにも当てはまりますね。

言葉を返してみると不安感から誰でも標的になり、誰でもいじめる側にもいじまられる側にも廻ってしまうことを示します。仕事を好きで首になったり好きでいじまられる側に廻るものはいません。気がつけばそうなってしまっており、また気がつけば「いじめ」や差別に加担する側かもしれないですよ。

はみ出すことを恐れることからこそ、同じような流行を求めて集団やグループを作ったり、インチキな宗教などの「あなたは私を信じていれば幸せだ」というような詐欺グループに参加してひっかかります。

(自分達の集団、グループから)はみ出していなければ安心だ、と勘違いします。一人なら不安になりますが、集団で同じ方向を向くならその集団で行われることは全て、「正義だ!!」といった感覚に近付くからです。

その感覚は自分たちさえよければ他がどうなっても構わない、といったごう慢さを生み易く、自分達の安心感のために全てを肯定も否定するようになります。

それはどういった集団、グループであろうと同じです。

会社や企業という大きな器であろうと、新興宗教やカルトという限られた器であろうと、チーマーや暴走族などと呼ばれる集団やグループであろうと同じです。大きい、小さいの差こそあれ、行われることは同じなのです。

多様な価値観があることを教え、自分達で「どうしてそうしなければならないか?」を子供達に教える時間が必要です。そのためには「これが正解だ」と教えるのではなく一緒に悩み考える大人が必要になってきます。

現在、起こっている問題の多くは何らかの効率に追われるあまり、大人たちが子供と一緒に考えること、悩むこと、時間を割くことをしなくなったからではないでしょうか?少なくとも、私にはそう受け取れます。

ただ単に目標を掲げてみせて「従え!」「アレが正しい!!」と押し付けてしまっても何も解決しません。そのような姿勢がかえって問題を複雑化させています。

そろそろ、社会環境そのものを見直す時期に入っています。

まず話す努力、一緒に考える時間を

子供達に接する時、あまり難しく考える必要はありません。

安易に「効きそうだ」「こうすればいい」と押し付けてしまう前に、子供や家族、友人と直接向き合い、話し合う時間を割いて向き合うための努力を。

効率を求めれば確かに「仕事や家事が忙しい」「面倒だから金を払って誰かにまかせよう」といった発想になりまが、子供たちが一番欲しがるのは自分を理解、話し合ってくれる存在です。

絶対的な解答を教えて欲しいのではない。誰かに一緒にいて欲しいのです。

答えは自分で見つける必要があります。誰かが用意してくれた答えは、それがどんなに素晴らしいものであろうと、その人自身の答えではないから。社会情勢も背景も個性も違う人達の解答が、皆一律である必要はありません。

悩み、苦しみながらも方向性や解答を探すことが、その人を育て、価値観を広げます。

本来、人はそうやって強くなってゆくのです。周囲はその手助けをするものです。全てその人に代わって用意してしままえば成長はありません。誰かに盲目的に従うロボットや劣化した誰かのミニ版が完成するだけです。

誰かに一方的に利用されたりロボットのように何かに縛られる生き方をしないようにするためには「従う」ことや「用意された解答」を信じるよりも「自分で考える」ことを教える必要があります。

個性や個人の考え方を尊重する代わりに、責任も「自分で持つ」ことを教える必要があるのです。

子供達にもっとも近い距離や立場にある両親や教師が「言われた通りにすればいい」と押し付ける教育は何も生みません。

何かの行動や価値観を押し付けることは結果、自分で考える能力を奪い、独創性やひらめきを持たず、間違った事を押し付けられることを「嫌だ!!」ということができない人間を育てます。

教育や指導の基本は「導く」こと

「いわれた通りにすれば何も問題ない」といわれてそのまま育った「大人」、正確には「子供のまま」歳を重ねた人には、自らの意思や方向性、考えを持ちません。と同時に責任感もなくなる。

どんな行動、リアクションを起こそうと、それがその結果、どのような重大な社会問題になろうと、それは自らの意思ではなく全ては他人の責任にしてしまえるからです。

他人事なんですよ。自分の責任だとの自覚は無い。ただ盲目的に集団に従っただけで自分には関係ないような感覚を生みますが、実際に贈収賄を含めた刑事事件、カルト宗教への参加で責任を問われるケースも多々あります。新聞の三面記事で捕まっている人をよく見て下さい。犯罪を犯していながら、本人のコメントや証言には何の自覚もない発言も多くなってきています。

他人の解答を安易に受け取ってしまって育つと「私の責任ではない」と思ってしまいます。人を殺しても何とも思わないような大人になります。それは洗脳と呼ばれる手法で教育でも指導でも無いでしょう。

何かのマニュアルか手順、企業やシステムにのっかれば、自然に何らかの「成功」に導かれるのでしょうか?私はそうは思いません。

そう煽るCMや塾講師や予備校も多いですけどね(笑)。教育の現場におかしな国のイデオロギーを持ち込んで押し付けようとする教師もいます。平和だの平等だの戦争反対などとは言っていますが、主張をよく聞いてみるとかなり恣意的(しいてき)で、特定の意図を持って歪みを子供達に押し付ける連中もいます。

要するに子供達に自分達大人の「正解」を無理やりに正しいと押し付けています。何が正しいかを調べよう、時代背景や歴史、国際情勢を調べよう、現実に起きている数多くの事例と比較してはいません。我々が「そうだと思っているからそれが正しいんだ!」とだけ繰り返しています。

指導は「導く」と書くのですよ。無理矢理に押し付けたり、脅かしてそちらを向かせることではありません。

教えていなければ理解はありえない

大切なのは、なぜ、「今それをするべきなのか?」を時間を割き、話し合うことがです。

押し付け、無理に何かを行わせることで問題は解決しません。時間をかけても話し合い、相手に自分で考えさせる必要があるのです。その手順や時間を何らかの理由を楯に省くことは将来、何も自分で考えない、何の責任も負わない大人を増やしてしまうでしょう。

そうすると「役に立たない親や年寄りの面倒など、どうして私達がやらなけらばならない」と考えるのが普通ですよ。何も教わっていないのですから......。思いやりを失い、愛情を理解しない大人を育てることになります。

一緒に悩み考える手順を惜しんでしまえば、子供は、「自分のためにこの人が教えてくれた」「考えてくれた」「育ててくれた」とは絶対に感じませんよ。

ペットですら餌を与えてくれた人を恩人とか飼い主とは思いません。愛情を注いでくれて一緒に遊んでくれたり寝てくれたり、散歩に連れて行ってくれた人を飼い主だと理解するでしょう。手間暇をかけず、ペットが懐かないとか飼い主として認めてくれないと怒るほうが異常です。

まして人間の子供はペットではない。もっと考える能力もありますし、成長過程も複雑です。家にお金を運んだとか食い物を与えたとか寝る所があった、というだけで認めてはもらえないでしょう。

むしろ満足な時間も与えずに強引に何かに従えと教えて、結果、就職や進学がうまく行かなかった場合、怨みにも思うかも知れません。今、自分が苦しんでいたり社会に適合できないのはあの先生や親の責任だと怒り始めるかもしれないですね。少なくとも、そのようなことを「押し付けた」と感じる親や学校の先生を尊敬などしないでしょう。

競争に勝つこと、効率の良さだけを考えることはそのような結果を招きます。

無駄にも思える作業とか、意味の無さそうな会話にも価値があるのです。

競争に破れた者はクズだ、などといった考え方を強化すればそこには何の思いやりも必要ありません。近い将来、両親やお年寄り、身体の弱い者などはまったく振り返らない、弱者を切り捨てる社会が存在することになるでしょう。

競争と効率だけを社会が認めるようになれば、はみ出した落伍者、身体が動けずに働けない者や、歳を取った両親などのは何の利用価値もありません。SF小説のようですが、一定年齢を過ぎれば「殺してしまえ!」「あいつらのせいで、我々が重税に苦しむのだ!」といった論理になり易いと思います。

それらは過去に独裁者が取った政策にそっくりです。移民や貧民層を差別して殺そうとしたり、障害者に偏見を持ち「優秀な人種だけが生き残ればいい」といった言葉に重なる部分はないのでしょうか?

浮浪者狩りやおやじ狩り、いじめも、そのような観点から見るとむしろ当り前のように感じます。

面倒でも考える努力を

私は常に「こうしなさい!」と命令はしません。

「自分で行い、考える」方向で常に指導しています。

「こうすれば良い」と指導することや施術を行うことは簡単ですが、私は教祖にも神にもなりたくありませんし、なれっこありませんよ。私自身が迷いも苦痛も抱えて生きているただの人間です。

その「ただの人間」が誰かに「正解を導き出すことが出来る」と考えるのはただのエゴであり自惚れでしょう。私はそんなに偉くもなれないし自信家でもありません。その人の生き方はその人本人が決めるものです。

話し合いは必要でしょう。アドバイスもできる。息抜きやストレスの軽減を勧めることもできますし、経験や勉強から私なりの手法や技術も持っている。ただしそれらはお互いの話し合いや状況の把握後に決めてゆけばいいことであって、私が一方的に押し付けるものであってはならない筈です。

私が正解を与えてあげる、などといった考え方に傾倒することは極めて不遜であり危険です。

どっかの政治家や独裁国家、インチキ新興宗教の教祖のように傲慢な感覚の持ち主になりかねませんし、相談にくる人の自立や回復を妨げると考えるからです。

その感覚を私に言わせれば、「魂を捧げればお前の望みはなんでもかなえてやろう」という古(いにしえ)から伝わる悪魔の姿と変わりません。魂を失うとは自らの意思や方向性、考えを失うことです。全てを相手に任せてしまって考える能力を失うならば、それは魂を売り渡す行為に似てはいませんか?

何かを一方的に信じ拝めばいいと教えるのなら、そこに自主性や自立性、個性や独創性はいりません。たった一人の支配者や独裁者が必要なだけになってしまいます。他人を利用し、誰かを殺して一部の人間だけが私腹を肥やすただの差別社会がそこにでき上がってしまいます。

苦しくても、面倒でも、自分で考えることを止めてはなりません。

それはあなたの魂、未来や将来性を失わせる行為です。

悩んでいる時や悲しい時や寂しい時はどうしてもそちらに傾きがちになりますが、それでも歯を食いしばって考えるしかない。なぜならばその行為こそがあなたを育てるからです。

耕し、育てるのは大変

「私を信じて拝みなさい。そうすれば良いことがありますよ」と告げることが最も簡単です。

「さあ、外に出て、荒れ地に赴き、額に汗して一緒に耕しましょう。苦労しますが、きっといつか収穫が得られますよ」と告げるよりはそのほうが楽なんですよ(笑)。

荒野に出でて耕すのは大変です。一緒に汗を流すのも難しい。耕す役目とか種を蒔いて水をやる作業は人に任せて収穫だけには参加したいと言ってくる人や、収穫時にだけ実りを強奪しようとする人は古(いにしえ)からたくさん存在しますから。苦労しないで報酬を得るのは筋違いなんです。

おいしそうに見える言葉を並べ、相手を騙そうとするのは、そこに自らが大勢を利用しようという、邪(よこしま)な感覚があるからです。

できるなら私は「私を拝め、信じろ」というよりは「共に耕せ」「自らを励ませ」と教えたいものです。

できることなら、私と「一緒に耕す」努力を。

何かから脱出しようと思うなら、苦しみながらも自分で歩く必要があるのです。

お金を払いさえすれば何でもかなうと思うことは危険です。催眠とかカウンセリングばかりではなく、宗教であれ事業であれ、家庭や子育てであれ同じ。

「拝む」ことでは変わりません。自らの意思がその人を変えるのです。

私は身勝手な親が、メールで「ウチの子供を催眠術で操って優秀にしてやって欲しい」などと言ってきても従いませんよ。まして親の言うなりにしろとかは言語道断です。それでその子が幸せになるとは思えないから........。親が考える幸せの方程式に勝手に子供を当てはめるべきではないでしょう。親であってもやってはいけない。

同じ足で立ち、同じように苦しみ、一緒に考えることで始めて解ける問題はある。一緒に歩いてその人の痛みや立場はわかるのです。何かを決めつけてしまい誰かが神か悪魔のように振舞うようになれば人の痛みはわからないでしょう。

催眠を悪意を持って捉え、誰かを安易に操ろうと考える人には私の考えは決して理解できないと思います。

「私に任せておけばいい」と一方的に考えることはその人の自主性を失わせ、自分で考える努力をせず、相手のいいなりになる人間を増やします。結果として相手を操ることと変わらないのであるならば、「自分を神として崇めろ」と言っているのに等しいんですよ。そこに思いやりはありません。

人と人との繋がり、その中から生まれる他人の気持ちや立場を考える心。

その気持ちを「思いやり」と呼びます。

「思いやり」を持つ努力を。また、悩める人は自分の意思を失わず前に進む勇気を。

その姿勢が、自らを導くのだと思います。

1998年03月31日初稿

2000年04月20日改訂

2006年04月29日加筆、修正

                谷口信行

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